マイノリティマウンティングに必死な人々がいる限り、ダイバーシティは実現しない

プラス・ハンディキャップの理事という仕事をしていると、毎日のように様々な「マイノリティ」と呼ばれる方々との接点があります。取材してほしいという依頼をいただくこともあれば、ライターとして活動したいという方もいらっしゃいます。具体的に何をしたいわけでもないけど、プラス・ハンディキャップと関わりたい・繋がりたいと思って、イベントに来てくださる方も少なくありません。団体の理事としては大変うれしいことです。
 

いわゆるマイノリティと呼ばれる方であっても非常に活動的で人間的な魅力にあふれる方はたくさんいます。プラス・ハンディキャップに協力いただいている方々はそういった方々です。
 

一方、正直言ってあまり魅力的でないと感じる方もいます。単純に人間関係の相性というものもあるのでしょうが、少なくとも私はあまり長い時間一緒にいたいとは思わない方々がいるのです。
 

どういう人かといえば「マイノリティを武器にする人たち」です。
 


 

私たちが「生きづらさ」に焦点をあてたWebマガジンを始めた2013年に比べると、様々なマイノリティが知られるようになってきました。SNSによって個人が世界中に情報を発信できるようになったことも影響しているのでしょう。SNSが登場する前には、マスメディアが取り上げなければ知ることのできなかったマイノリティのリアルが、今では世界中どこにいても知ることができます。
 

SNSをうまく活用してマイノリティとして市民権を得たカテゴリもあります。LGBTと呼ばれる性的マイノリティはその一つではないでしょうか。少なくとも私は、SNSからの情報でLGBTの方々の存在がより身近になりました。
 

市民権を得るマイノリティがある一方で、いまだにほとんど知られていないマイノリティも存在します。目に見えるものと見えないもの、著名人に当事者がいるものといないものなど、マイノリティ同士の知名度の格差も出てきます。
 

この格差から「マイノリティを武器にする人たち」は生まれます。

 

「私の方が知られていないマイノリティだからかわいそうだ」

「あの著名人が当事者として言っていることはごく一部だ、私は違う」

「私のマイノリティ要素を理解できないのに、多様性理解だなんて言わないでほしい」

 

マイノリティ界の中でもさらに弱者的存在であると、ことさら主張する人々を私は「マイノリティを武器にする人たち」と勝手に呼んでいます。そういった人たちは、マイノリティに対してマイノリティという武器で対抗しようとします。最近では人間関係で相手よりも優位に立とうとすることを「マウンティング」と表現することがありますが、私たちの周りでは「マイノリティマウンティング」を繰り返している人たちもいるのです。
 

自分のことをわかってほしい、自分のつらさを知ってほしい、助けてほしい、という感情は誰にでもあるものだと思います。特に、周囲に同じ状況の人が少ないマイノリティの方であれば、その気持ちが強くなるのは当然かもしれません。私は、そうした主張をする人を非難するつもりはありません。私が、魅力がないと感じるのはマイノリティを武器にして、他のマイノリティの上に立とうとするマイノリティマウンティングをしている人たちです。
 

マイノリティマウンティングという行為が意識的なのか無意識的なのかはわかりません。ただ、多くの人はマイノリティを含め、多様性への理解や受容が重要と感じている昨今、マイノリティマウンティングをすればするほど、多様性の理解や受容とはかけ離れていってしまう気がします。
 

多様性の理解や受容において重要なのは、マイノリティを大切にすることではありません。社会的弱者を大切にすることでもありません。マイノリティや社会的弱者などというのは、切り口を変えれば誰もがあてはまる可能性があります。本当に重要なのは、属性や肩書に関わらず、相手が誰であっても大切にすることであるはずです。
 

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