生きづらさから抜け出すために必要な「感情」と「解釈」の整理。

「最近、生きづらいんだよね」という言葉を普段の生活で使うことはなかなかないと思いますが、「しんどい」「病んでる」「つらい」といった言葉であれば、ちょくちょく使うこともあるのではないでしょうか。そんな言葉や状態の中でも、自分では変えることのできない障害や障壁、状況や環境が引き金となっているネガティブな感情すべてをひっくるめて「生きづらさ」と私たちは定義しています。
 

例えば、身体障害故のもどかしさ、自身の性的指向に対するやり場のなさ、生まれてきた家族環境の貧困から来る侘しさなどは「生きづらさ」に該当するのではないでしょうか。ただ、価値観が多種多様なように「生きづらさ」に対する捉え方はそれぞれ異なるもの。どちらかといえば、私たちのほうが限定的に考えているかもしれません。
 

私たちが昨年出版した「生きづらさ大全」
私たちが昨年出版した「生きづらさ大全」

 

唐突ですが、ありがとうの反対って何だと思いますか。
 

自己啓発系の研修やセミナーでたまにある問いかけですが、その答えは「当たり前」だと聞いたことがあります。ありがとうは有り難う。有り難い=めったにないことに対する感謝の表れであるから、その反対は「当たり前」であるというロジックです。ありがとうの反対は「ありがたくない」ではありません。
 

では、生きづらさの反対は何なのでしょうか。生きづらくないのであれば、生きやすいのか。「生きづらさ」の反対は「生きやすさ」なのでしょうか。
 

3年以上、Plus-handicapを運営してきて、様々な「生きづらさ」を抱えた方々と話してきましたが、その多くは「生きやすさ」を求めているというよりも「自分が抱える生きづらさがない状態」を求めているように感じます。いわば「普通」を求めている。マイナスをプラスに転じたいというよりはゼロベースにしたい。そんな印象です。生きづらさを抱えた方々に定量調査をした訳ではないので一概には言い切れませんが、感覚値としては間違っていないのではないかと思います。
 

「生きづらさがない状態」を求めるのであれば、感情と解釈を整理することが解決へのきっかけになると考えています。プラスでもマイナスでもないゼロ(原点への復帰)を目指すのであれば、マイナスを一気にプラスに持っていくよりは難易度は下がります。
 

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さびしい、つらい、しんどい、もどかしい、死にたい。大前提として私たちがいう「生きづらさ」とは、状態から生まれる感情です。
 

偏見や無理解などを「生きづらさ」の一例とする方もいますが、同性愛者に対する偏見をまったく気にしないゲイもいますし、障害者に対して無理解な職場であっても、関係なく働き、成果を出す障害者もいます。言うなれば、偏見や無理解に対する捉え方(=解釈)から生まれる感情が「生きづらさ」のひとつです。
 

個人的には、感情なんて自分自身にしか分からない(他者に正確に伝えられない)のだから、感情に引っ張られないように自分でコントロールすればいいだけじゃないか?と一言で提案を終えてしまうのですが、それが出来るのであれば「生きづらさ」なんて問題化しません。その感情からなかなか抜け出せないから問題なのです。
 

つらいならつらいでいいじゃないか、さびしいならさびしいでいいじゃないか。感情は人それぞれ違うもの、また日によって変わるものです。感情を発信したいならば共有程度に留めておいたほうが無難です。そして、感情と向き合い続けたところで有意義な結果は生まれません。「生きづらさ=感情」なのですが、感情を考えるべき議題から外す。「感情について考えないと決めること」が「生きづらさがない状態」への第一歩です。
 

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感情について考えないと決めたならば、次に試すことは「生きづらさ」を生み出している背景や原因を自分がどのように解釈しているか考えることです。障害、疾患、性的指向、出自、キャリア、精神状況など様々な背景や原因から「生きづらさ」は生まれますが、それらを自分がどのように解釈しているか、自分なりの意見が導き出せれば、その瞬間に「生きづらさ」は幾分緩和されます。
 

同じ障害や疾患、精神状況を抱えていても、「生きづらさ」を抱えているひともいれば、抱えていないひともいます。これは、0か100かというよりは、0〜100の間での振れ幅に近いものです。そしてその数値は「自分の生きづらさを生み出している原因をどう解釈しているか」によって定められています。
 

「生きづらさがない状態」を0とするならば、0に近づくためには自身の生きづらさの解釈を否定的なものから緩めていくことが重要です。これは肯定的に解釈しようということではありません。あくまでも否定的な解釈を緩める、和らげるということです。
 

私自身が負っている両足が不自由という障害への解釈は「無関心」です。関心を持たないと捉えています。障害を負っていることは変えられないのだから、あれこれ考えてもしょうがない。障害から巻き起こる感情を手放したほうが、考えることが少なくなり、気楽なのです。また、障害があっても◯◯できる!チャレンジしよう!というような暑苦しい気概もなければ、肯定的な解釈も私にはありません。先天性という面が影響しているようにも思いますが、他者と比較する悪しき習慣がないことは幸運だったかもしれません。
 

先述した、同性愛者に対する偏見をまったく気にしないゲイ、障害者に対して無理解な職場でも成果を出す障害者は二人とも友人ですが、偏見に対する解釈、無理解に対する解釈が、そこまで否定的ではありません。そして、肯定的だとも受け取れません。いい意味で自分と他者との違いを割り切って受け容れているのだと思います。
 

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障害者は全員が生きづらい。セクシャルマイノリティは全員が生きづらい。
 

属性ごとに切り分けたとき、そのすべてが「生きづらさ」を抱えているならば、問題は案外簡単な構造で、社会がその問題を解決すればいいだけの話です。しかし、当事者一人ひとりによって「生きづらさ」の有無や深さなどが違うのであれば、それは当事者の問題として降りかかってきます。
 

「生きづらさ」から抜け出すための有効な手段は「感情」と向き合うことを中断し「解釈」を変えることです。何度も言う通り、肯定的に解釈せよということではありません。「まあ、しょうがないか」というような一種の割り切りに近い解釈のほうが、感情の波が立ちづらく、「生きづらさがない状態」を目指すのであればお薦めしたい水準です。
 

「生きづらさがない状態」というのは、自分の障害や疾患がなくなれば、自分の精神状態が完治すれば、偏見がない社会になれば、といった壮大かつ自力では不可能なことではありません。おそらくそれは専門家でなければ難しいですし、そこに焦点を当てると「生きづらさ」から抜け出せません。それでも目指したいのであれば「当事者目線で支援者となる活動家」になればいいだけですが、生きづらさを抱えた状態でなってしまうと当事者にとってはただただ迷惑な話になってしまいます。
 

完治の見込みのない病気を患っていて、死を迎えることを待つだけだ。障害によって体の自由が利かず、自分でやりたいと思っても何もできない。精神的な不調のせいで1日1日体調が異なり、理想なんて描いても意味がない。そんな私たちにどうしろというのだ。
 

とにもかくにも悲観が前面に来るひともいますが、それは「生きづらさ」ではなく「諦め」や「絶望」でしょう。「生きづらさ」とは、前進しようとする自分の前に邪魔するもので、一歩も動こうとしないひとの前にあるものではありません。出来ることが限られていても、精一杯頑張っているひとはたくさんいます。
 

今の日本社会全体が「生きづらさ」を抱えているのか。「生きづらさ」を抱えているひとは多いのか。それは数値的には分かりません。ただ、ひとが生きている限り「生きづらさ」を感じるときもあれば、感じないときもあります。その波はいろいろなひとのもとに等しく訪れるでしょう。「生きづらさ」は社会的弱者やマイノリティの専売特許として使われる言葉ではありません。
 

「生きづらさ」を抱えているひとが、自身の置かれている現状への解釈を少しだけでも変えるだけで、まずは一息つくことができます。「自分が変われば周囲が変わる、周囲が変われば社会が変わる」と言うのは私たちPlus-handicapが掲げている文言ですが、個人の解釈ひとつ変えるだけで、結果的に社会が変わっていく流れが作り出せるのであれば、巡り巡って、自分自身の置かれている環境の改善が向こうから(社会から)やってきてくれるのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。