「障害者」を一括りにして考えることの意味と無意味【Plus-handicap Session Fukuoka イベントレポート】

2015年9月27日、Plus-handicap主催のイベントとして初の福岡でのイベント「障害者が「障害」を強みや肩書き、武器にすることの良し悪しを考えるーPlus-handicap Session Fukuoka」を開催しました。いくつかの問いかけを使いながら、障害者が「障害」を理由にするとき、肩書き代わりに使うとき、免罪符のように使うときなどのメリット/デメリットや意義について、3人のパネラーと1人のレフェリー、そして多くの来場者の方とともに考えました。
 

レフェリーの奈須さん、パネラーの山本さん、永野さん(左から順に)
レフェリーの奈須さん、パネラーの山本さん、永野さん(左から順に)

 

障害は治せるものならば治したいのか。ただ、治した結果、手放すものもある。

 

ips細胞のように再生医療がより身近なものとなった場合、障害部位を治すことが可能となるかもしれません。また、オリンピックに義足ランナーが参戦したように、テクノロジーの発達によって、障害部位をより強化することが可能となるかもしれません。
 

社会がそのステージに突入したとき、障害は何をもって障害と定義されるのでしょうか。障害が完治したならば、そのひとは障害者ではなくなるのでしょうか。
 

「もし医療の発達によって障害が治せるのであれば治したい」
 

これはパネラーとして登壇していただいた山本さん(人工透析を受ける障害者)の言葉。後天性で健常者だった頃の自分を知っているからこそ思うことだと背景も説明していただきました。私の場合、生まれつき足が不自由なので、健常者だったという過去が存在しません。障害があることが生まれてからの当たり前だと、障害がないことを想像しづらいものです。
 

「障害を治したいという願望はそこまで強くないかもしれない」
 

同じ障害者であっても、障害を治したいかどうかという気持ちの濃度は様々です。
 

イベントで激論が交わされている中、自撮りしている編集長(佐々木)
イベントで激論が交わされている中、自撮りしている編集長(佐々木)

 

ただ、障害が治ったとしたら、障害者福祉のサービスや障害年金の受給といったことはなくなるでしょう。障害者雇用枠で働くこともできなくなります。
 

「障害者」という肩書きがあるからこそ、健常者にはないものを持っている。障害があることで享受できているサービスを手放せるのか。今まで障害者の世界で生きてきた状態から、健常者の世界で生きていくことは可能か、そのギャップを受け入れられるのか。個人的には、既得権益が絡む政治の問題と似ているような気もします。
 

障害者を「御涙頂戴」コンテンツとして扱う是非。

 

Plus-handicapで「24時間テレビにナメられている障害者の現在地」という記事を公開しましたが、執筆した2013年8月当初は批判的な反響(炎上)が巻き起こりました。わざと同じ原稿をシェアした2014年は肯定的な反響が拡大し、PV数が4倍増しましたが、障害者に対する捉え方には変化が現れているように感じます。
 

その変化の経緯を説明しつつ、話題提起として、某24時間テレビのような「障害者を御涙頂戴のアプローチで描くこと」に対するパネラー間の意見交換を行いました。
 

某24時間テレビからオファーが来たらどうするか?という問いかけに「企画内容による」と語ったパネラーの永野さん、山本さん。「御涙頂戴」的なアプローチには首を傾げるものの、他者を勇気づけるコンテンツであれば検討するという意見は本音でしょう。
 

24時間テレビ
 

レフェリーの奈須さんの意見として出てきましたが、今年はプロレスラーのハヤブサさん(試合中の大けがによって全身不随状態となり現在休業中だが、復帰を目指しリハビリを続けている)が後楽園ホールで10カウントゴングを聞くという企画がありました。10カウントゴングは本来引退を示すもの。障害者をコンテンツ化することはあり得るとしても、本人の意向や慣習などを無視していいわけではないという厳しい意見は、まさにその通りだなと思います。
 

(参照)
プロレスラー・ハヤブサ、「24時間テレビ」での“引退”誤解を否定
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150824-00000016-rbb-ent
 

社会側の無理解や偏見に対して、障害者の認知を拡大するためのひとつの見せ方が「御涙頂戴」です。しかし、少しずつ障害者に対する意識や考え方が変わってきている今、どのような存在として取り扱ってほしいかは、当事者をはじめとした障害者界隈で考えていかなくてはならない論点かもしれません。議論の結果「御涙頂戴」でまとまったならば、個人的には悲劇です。
 

Session Fukuoka20150927①
 

障害者は貢献意識を持っている?持っていない?

 

「福祉サービスを受ける側から納税者に変わる」というのは障害者の自立というテーマでよく話題になる言葉。イベントの後半では「障害者の貢献意識」について議論が深まりました。
 

「障害者って貢献意識が低くないですか?例えば、社会に貢献する、働いている会社に貢献するという意識が低い気がする。障害者全員が持っていないというわけではありませんし、持てる状況にないひともいることは事実だと思いますが。」
 

意見が言いたくてウズウズしたせいで、司会役からパネラーに変わった編集長の佐々木の暴言に近い発言ですが、案の定、「貢献意識を要求するとは何事か?」という意見が上がりました。頂戴した意見はまさしくその通りで、貢献意識は強制するものではありませんが、与えられることに慣れすぎていると与える側に回ることができないのではないかという懸念からの提言です。
 

「貢献という言葉を自立という意味で考えると、意見が伝わりますね」
 

という来場者の方からのご意見に助けられましたが、経済的自立という観点でいえば仕事の現場で成果を出し、評価される必要がありますし、1人で生きるという観点でいえば、自己中心的な振る舞いで周囲に敵を作ることは不必要です。貢献という言葉が極端ではありましたが、社会で生きる一員として考えるならば、自立のために貢献意識を持つことは重要なのではないでしょうか。
 

「障害者は健常じゃない部分があるから障害者である」というご意見もありましたが、健常じゃないからといってすべてが許されるわけでもないですし、健常じゃないから社会のルールに則して生きなくていいということはありません。自分だけ良ければ良いのではなく、周囲のサポートに回ることや配慮することも場面によっては必要です。
 

いつもは手を差し伸べられる側が手を差し伸べる側に変わることができれば、もう少し社会は生きやすくなるのではないか。そのためには配慮されることが多くなる障害者のちょっとした意識変革は必要ではないかなと、個人的には思います。
 

「やばい、言っちゃった」と反省している編集長の佐々木。
「やばい、言っちゃった」と反省している編集長の佐々木。

 

多くのひとが「障害」を負っている人に対して、遠慮にも似た過剰な配慮や反応をもって接していることは、障害者に対する配慮の問題や差別の問題が根強く残っていることから明白だと思います。ただ、その現状を障害者側は認識していますし、逆手にとって「障害者」という肩書きを賢く使うひともいます。
 

「障害者を理解するのではなく、人としてどこまで理解できるのかって感じだった」というのはパネラーの永野さんの感想の言葉ですが、障害者それぞれにもオリジナルな意見はありますし、種類や状況、受障経緯などによっても苦しみや受容は異なります。「障害者」を一括りにして考えることの意味と無意味を考えることができた福岡でのイベントでした。
 

記事をシェア

この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。