生活保護の受給と不正受給。どちらも経験した若者が語る「自立」という言葉の意味。

小さい頃から高校卒業まで、生活保護の受給家庭で育った博史さん(仮名)。彼には高校生の頃、アルバイトを行ったことが原因で生活保護の不正受給を摘発された過去があります。現在は、正社員として一般企業で働いており、生活保護の受給は終了していますが、受給期間にアルバイトで得た金額の返還(生活保護期間中に無申告等で働いた場合、得た収入の返還が発生する場合がある:生活保護法63条より)を行っています。
 

生活保護支給件数は増加の一途をたどり、また、不正受給件数も増加しています。生活保護受給家庭で育ち、不正受給を摘発された当事者が感じる生活保護の問題点について聞いてきました。
 

参考記事:
「生活保護」を受けている世帯数が過去最多に!約半数は高齢者世帯(IRORIO 2015年3月4日)
http://irorio.jp/nagasawamaki/20150304/210698/
 

生活保護の不正受給、最悪を更新 13年度4万3000件 (日本経済新聞2015年3月9日)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG09HB1_Z00C15A3000000/
 

20150330記事用写真
 

生活保護受給家庭で育った博史さんにとっての「当たり前」

 

博史さんは母と兄との3人家族。「戸籍上の家族」という言葉を使って説明してくれましたが、博史さんが物心ついたときには両親は離婚していました。その頃から体調を崩しがちだったお母さんは働きにいくことが難しく、生活保護を受給するに至りました。今ではそれぞれが一人暮らしをしている状態であり、働いていないお母さんだけ生活保護を受け取っています。
 

ハッキリと記憶していませんが、小学校低学年のときには受給していたと思います。高学年になると、自分の家は周りの友達の家とは違うんだって気付くようになりました。小さいときって、友達みんなで買い食いとかするじゃないですか。友達は親からお小遣いをもらっているけど、僕はもらっていないので何も買えない。見かねた友達から、おごってもらうことが多々あったんですけど、そのとき、うちの家は違うんだって感じましたね。

 

自分と他者との違いは、比較することによって、劣等感を生み出したり、自己肯定感を損ねたりすることが多いです。比較なんて意味のないことだと言うこともできますが、思春期のような多感な時期にそんな言葉は届きません。
 

小学校高学年、中学生になっていくと友達も増えていきますが、「モノが買ってもらえない」のはうちの家だけなので、「いくらなんでもおかしい」ということに気付き始めるわけです。ただ、悲しい話ですが、不満をぶつける相手もいませんでしたし、「これが自分にとっての当たり前なのかな」って思っていました。僕は、そんな状況から抜け出したくて、早いうちに家を出ようと決めていました。

 

アルバイトで生活費を稼いだことが福祉事務所にバレる

 

高校生になると、小中学校時代と比較しても、様々なお金がかかるようになります。先述の通り、お小遣いをもらえないという状況があれば、何をするにしても自分でお金を稼ぐ必要があります。一般家庭で育った方にはピンと来ないかもしれませんが、食費、学費、携帯代、友達との交際費などを高校生が自分自身の力で作り出すのはなかなか大変なものです。
 

高校生になっても、親は僕にお金をくれなかったこともあって、お金もいろいろ掛かるのでアルバイトし始めました。実は、僕は母親にお弁当をつくってもらったことがありません。中学生の時から、毎日、お弁当代として1,000円を渡されていました。正直なところ、僕は、母親を嫌悪している部分があったので、手作りの弁当ではなく、買ったパンの方がありがたかったんですけど。ただ、高校生になると、そのお金もくれなくなったので、自分で稼ぐしかなくなりました。

 

経緯はいろいろあれど、生活保護受給中に就労する場合(所得を得る場合)は福祉事務所に報告する必要があります。まったく所得がない場合は生活保護基準額を満額受け取ることができますが、アルバイトなどで得た収入は、その金額を報告した上で、「基準額ー収入」分が生活保護として支給されます。この報告を怠ったり、報告額に虚偽があったりした場合は、不正受給となります。
 

生活費は必要でしたけど、物欲があまりないので、すぐに何かが欲しくてアルバイトしたわけではないんです。ただ、アメリカに留学したいという気持ちがあったので、その資金を貯めるという目的はありました。どこか遠い国に行って、自分の人生を変えたいなって。それでアルバイトしてたら福祉事務所にバレてしまったんです。

 

給与明細と電卓
 

不正受給が判明すると、仕事で得た収入を返還しなくてはいけません。博史さんも例に漏れず福祉事務所に不正受給が見つかったのでアルバイトで得た収入分の返還を行っています。
 

自分が働いた分のお金を返すということに納得はいかなかったですね。他の子は、親からお金をもらって欲しいモノを買ったり、塾に行って勉強したり、部活をしたり、遊んだり、恋をしたり。でも、僕はそういった時間を自分の生活を維持するためにアルバイトに充てたのに「稼いだ分を返せ」と言われると、やっぱり不満はあります。不正受給は悪いことなので、僕が悪いんですけどね。連絡してきたケースワーカーの方に「あなたは自分が悪いことをしたと思っているのか?」と言われたんですけど、「僕だって好きでやったわけじゃない。自分が同じ立場になった時、同じことが言えるのか?」と言いたかったのが本音です。

 

当初は知らなかったとはいえ、アルバイトを行っていくうちに不正受給の問題を知ったという博史さん。「バレないだろうと思っていた。高校生って甘いですね。」と当時を振り返っていましたが、発覚した直後にアルバイトを探し始めたという話は驚きでした。
 

発覚した2日後からまた新しいバイトを探していました。稼いだお金は貯金より生活費として使っていたので、さほど手元に残っていなかったんですよね。返還も含めてまた働く必要があったんですよ。不正受給に関して、反社会的な言い方になるかもしれませんが、「何でバレてしまったんだろう」という気持ちが強かったんです、当時。稼ぐことは生きていくために仕方がないと思っていましたし。結局、アルバイトは辞めたんですけどね。生活は苦しさの極みでしたよ。

 

生活保護家庭に生まれ、不正受給も経験したからこそ言えること。

 

アルバイトがバレたとき、今回の記事のように、あるメディアの取材を仮名で受けたことがある博史さん。そのときの縁で知り合った社会起業家の方に親切にされたことで、自分の人生が変わったと言います。生活保護受給家庭という一般家庭とは違う環境の中で育ってきたことが、その出会いを生んだ。自分の人生をポジティブに捉えている博史さんの「自分の境遇を恨んでいない」という言葉には説得力が宿ります。
 

メディアの取材の縁で知り合った社会起業家の方が、将来に関して相談に乗ってくれたり、いろいろと会社見学に連れて行ってくれたり、たくさんの社会人の方を紹介してくれたり。社会との接点を作っていただきました。おかげで自分の選択肢がすごく増えました。バイト先でも、家庭の主婦からちょっと危険な臭いがする方まで、いろんな人に会いました。そこで社会の形を少しでも学べたことはとても貴重で、普通の高校生にはできない経験ではないかと思っています。だから、自分の境遇を恨んではいません。カッコつけてるわけではないんですけど。

 

自分の境遇を恨んでいないと言えるのは、強さというよりも自分の過去と向き合い、完了させているからかもしれません。そんな状態の博史さんだからこそ、日本の生活保護制度についてどのような意見を持っているのか、聞いてみました。
 

制度として大変ありがたいと思っています。この制度が無ければ、自分はとっくに餓死していたでしょう。ケースワーカーの方を悪く言ってしまいましたが、あの方々だって、ご自分の仕事をキッチリ果たそうとされているわけなので、文句を言うのは筋違いだとわかっています。そもそも生活保護自体が、国民の税金ですしね。自分も、納税する立場になって、初めてこの制度のありがたさを理解しました。

 

生活保護
 

生活保護に関する様々な議論が生まれていますが、自分の生い立ちなどから見ると、制度云々よりも親が問題だと思っています。自分の親を悪く言うのは心苦しいですが、僕の場合は、両親が原因、親のだらしなさがそもそもの原因だと考えています。父はパチンコで借金を作り家出。母親については、大変な状況だとは分かっていますが、自分で何とかしようという気持ちが薄く、働く意欲もなく、結局寝たきり状態のようになってしまいました。僕の目からは、どこか人生を諦めてしまっているように映っています。だからこそ僕は、両親を反面教師に頑張りたいと思います。とは言っても、自分を生んでくれた大事な親なので、働いて少しでも良い思いをさせてあげたいと思います。まだこの年齢で、親を恨んで生きる、というのは悲しいですしね。

 

アメリカへ留学してみたい、そして可能であれば、大学にも行きたい(博史さんは高校を卒業して働いています)と話す彼の言葉には迷いがありません。博史さんへのインタビューを通して感じたのは、彼はとても「自立」しているということです。高校生の時から、自分の生活費を自分で稼いでいた彼は、生きていくことに厳然と向き合っていました。生活保護は経済的な自立支援に当たりますが、「自立」とは自分の人生に立ち向かう覚悟の強さなのかもしれません。

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この記事を書いた人

堀雄太

野球少年だった小学4年生の11月「骨腫瘍」と診断され、生きるために右足を切断する。幼少期の発熱の影響で左耳の聴力はゼロ。27歳の時には、脳出血を発症する。過去勤めていた会社は過酷な職場環境であり、また前職では障害が理由で仕事を干されたことがあるなど、数多くの「生きづらさ」を経験している。「自分自身=後天性障害者」の視点で、記事を書いていきたいと意気込む。