24時間テレビにナメられてしまっている障害者の現在地

「ダウン症の女の子たちにAKB踊らせれば感動するんじゃない?どうせ視聴者なんて、障害者ができそうになさそうなことをやれば、すご〜いって言って感動して涙こぼすんだから。」と企画会議でこんな言葉が出たとか出ないとか。
 

今年の24時間テレビでも「障害者が頑張ってる→感動して涙こぼれる」という流れが繰り返され、障害当事者兼視聴者である私としては、怒りと悔しさが入り混じるような感情に悩まされました。よくぞ手を変え品を変え障害の種類を変え、毎年毎年企画を練り上げてくるなと感心します。もちろん、頑張っている姿に心打たれ、私自身、元気をもらえたことは事実ですし、努力の道のりを否定するつもりはありません。
 

 

皆さんに素朴な疑問なのですが、「ダウン症の女の子たちがAKB48のダンスを踊ること」はテレビで放映するほどのことなのでしょうか?ネット上で放送事故と叩かれてまで。
 

ニコニコ動画の【踊ってみた】を検索すれば、プロのダンサーでも何でもない素人がアイドルの曲を踊っています。両足に障害を抱えている私にしても、カラオケに行けば酔っぱらって踊ることもあります。誰だって踊ることぐらいあるのであれば、わざわざ武道館で「ダウン症の女の子たちにAKB48と一緒に踊らせる」ことは、単なる御涙頂戴の見世物。むしろ障害者に対する差別的な扱いではないかと感じるのです。
 

しかし、私が問題提起したいことは、酷な言い方ではありますが、「障害者はもっと社会の中で頑張らないといけない」ということです。健常者100人がAKB48のダンスを踊ったってテレビで注目されるはずがありません。「ダウン症の女の子たちにダンスなんてできないでしょ」という思い込みがあるからこそ、この企画が成り立つのです。この思い込みを作っているのは誰でしょうか?他ならぬ障害者自身、そして周囲にいるオトナたちなのではないでしょうか。
 

※ダウン症のプロのダンサーがいらっしゃるようです。参照元→公益社団法人日本ダウン症協会
ちなみに協会では24時間テレビのことに触れていません。
 

例えば、カラオケで障害者が遊んでいることが日常の一風景として当たり前にあるとすれば、「ダウン症の子だってけっこうカラオケにいるじゃん?わざわざ武道館で踊るなんておかしくない?」という声が上がり、「障害者にダンス踊らせて御涙頂戴」という企画に対して否定的な意見が明確に出てくる時代になるはずです。(郊外型のカラオケ施設などでは、バリアフリー設備も一時期と比較すると充実し始めました。個室で楽しむ娯楽なので、人の目もそこまで気にならないはずです。)
 

つまり、障害者とその周囲にいるオトナが、社会に対して必要以上に気にしすぎて、敬遠してしまっていることで、健常者の障害者に対する過度な配慮や遠慮が発生し、結果として「障害者は多くのことができない」存在として認識されてしまっているのです。これは健常者・障害者間の認識のズレですし、もったいないことです。
 

スライド1
 

障害が理由となる「できないこと」と、障害が言い訳となる「やれることをやらないこと」は意味が異なります。できないこと、やりたくないことをやる必要はありません。しかし、やれることをやってこなかったツケが、目に見える形で溢れてきたのかもしれません。有史以来、障害者は存在し続けているのにも関わらず、未だに多くの健常者の意識にある「障害者が御涙頂戴のネタ」として存在していることが、ツケを物語っています。健常者に負けず劣らず、障害者にもやれることはたくさんある!と言うならば、そろそろ分かりやすい結果を表さないと健常者側は納得しません。
 

また、これは当人だけの問題ではなく、周囲の支援者が、障害者の可能性を限定し、本当はできること・できるかもしれないことへの挑戦を閉ざしていることにも原因があるでしょう。未知の世界を覗いてみたいという障害者に対して、言われたこと・ルーチンワークしかやらない介護者・支援者がいるのであれば、それは典型です。障害者の支援団体の方はよく言います。「障害者には可能性がある!やればできる!」って。しかし、そう仰っている方が障害者の可能性を閉ざす一因を担っているかもしれないのは、何ともやりきれない、皮肉な話です。
 

障害者の世界はナメられています。「どうせ障害者っていろいろなことができないんだろう」って考えられていると思います。そんなこと思ってないよと言って下さる方もいると思いますが、残念ながらマイノリティ。多くの方々には障害者に対する固定観念が存在しています。私自身、その中に含められるのは、大変遺憾です。
 

そろそろ、障害者の皆さん、思いっきり爆発してみませんか?日常生活の中に違和感なく溶け込み、仕事場でもきちっと成果を出し、恋も遊びも楽しんでみようではありませんか。周囲の顔色なんて伺わずに。健常者が当たり前にやっていることを当たり前にやりきれるようになったとき、「障害者が御涙頂戴のネタ」である時代は終わります。社会が受容してくれるのをただ待つのではなく、自分たちから行動に移していかなければ、その時代は永遠にやって来ないのではないでしょうか。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。