「歩けなくなる未来」を悲観しない3つの理由。

学生の頃、周囲から「やめたら?」と言われても、どんなスポーツもやったし、山道も鍾乳洞も歩いたし、2階からも飛んだ。この足でよくやったなと思う。馬鹿かお前は、とも思う。
 

でも、年を取るうちに、今までできていたことができなくなってきた現実に目を背けられなくなってきた。これは「障害」が原因なのではなく「加齢」が原因。順番的な問題で「加齢」が「障害」の困り感を増幅しているだけなのだが。
 

歩けなくなる未来
僕の左足と装具

 

このままいくと、自由に歩けなくなるかもしれない。動けなくなるかもしれない。
 

立ちっぱなしの作業なんてできなくなってきたし、駅まで歩くのが長いなと思ったら、タクシーを拾うようになった。仕事で言えば、研修講師の仕事も減らしたし、外回りの営業も減らした。どちらも適職に近いものだったと思うし、好きな仕事だったし、何より稼ぎどころだった。
 

障害があるから、障害さえなければ、なんて考えに陥ってしまいそうなところ。個人的にも諦めることが増えてきた実感はある。
 

なのに、これからも人生は楽しそうだなと思ってしまう。思考回路が麻痺ぎみなところは否定できないが、これは経験と考え方の問題であって、メンタルが強いわけでも、強がっているわけでもない。
 

自分の今を分析してみると「歩けなくなる未来」を悲観しない理由が3つほどある。
 

GATHERING
 

できない事実を受け入れることに慣れている

 

まずは「できない事実を受け入れることに慣れているから」である。
 

自転車には乗れないし、かけっこなんて毎回ビリ。お気に入りのスニーカーはすぐにダメにするし、立ち格好はカッコ悪い。できなかった(うまくいかなかった)事実の絶対量がホントに多い。
 

35年生きてきて、できない事実を突きつけられた機会が多すぎると、ひとつひとつに悲観に暮れるほどの素地がない。諦め慣れしている。一種のパンチドランカー。
 

だからなのか「できないからダメだ」と自己評価を下げるようなこともなく、下がる意味もわからず、その中で何ができるか、どうすれば楽しめるかを考えることが多い。ちょっとした思考の切り替えが大事で、ここが生きづらさの境目なのかもしれない。
 

事実だけを見て凹むから生きづらい。与えられた中で何ができるかを考えるから人生は楽しい。そして事実は変えられない。解釈を変える、しかない。
 

自分自身を過信していない

 

次は「自分自身を過信していないから」である。
 

そもそもは、僕は自意識過剰で自信家で自己肯定感に溢れているほう。「生きづらさ」に関するメディア運営とか発信とかやっているけれど、本来は一番遠い存在なのかもしれない。字面だけ見ると、すごくイヤなヤツ。
 

ただ、自分に自信をもつことと、自分ができることや技術・スキルに自信をもつことは別であるという考えが根本にあって、僕は前者にしか自信がない。
 

自分ができることなんて、自分以上にできるひとはごまんといるし、自分の技術やスキルなんて、後輩はあっという間に真似し、ごぼう抜きしてしまう。元からそう思っていたし、そうなっている。自意識も自信も、自分の身の丈くらいまで。
 

だから、講師や営業の仕事ができなくなっても、苦しくない。原因が加齢と障害だとしても、結果は同じだからだ。
 

ちなみに、後者的な考え方は自己評価は高いが、周囲からの評価と必ずしも一致しないため、生きづらくなりやすい。「〇〇ができる」ということにプライドがあるほうが危険だとさえ思っている。どちらかしか選ばないなら、どちらを選ぶかは大事だ。
 

歩けなくなる未来
 

いつ死んでも悔いのないように生きようとしている

 

最後は「いつ死んでも悔いのないように生きようとしているから」である。
 

僕はふたつの死が待っていると考えていて、それは、自由に動けなくなる死と生命の終わりを迎える死のふたつ。そしてそのひとつめの死が遠いものではないと自覚してきた。
 

であれば、自由に動けなくなる前に、自由に動けるうちにやりたいことをやるしかない。それは僕にとって、死を迎える準備と同じことである。
 

死を意識して生きていれば、その手前で発生する不自由さへの準備が念頭にあるので、自由に歩けなくなるかもしれない、動けなくなるかもしれないと心によぎっても、それまでに何をするか、そうなったときにどうするかを考えられるようになる。
 

また、自分を過信していないことに端を発するが、自分はそうまでして生き永らえなくてはならない存在なのか?と自問自答することが割とある。無常観に近く、生きることにあまり執着していない。
 

生き死にをどう考えるかという死生観はひとりひとりの考え方を形作る大切なものであり、ここが明確かどうかで、まったく同じ背景にあっても、生きることが楽しいのか、苦しいのか分かれるのではないだろうか。
 

人間はアプリのようなもの

 

偉そうに言葉を並べてみたけれど、自分が生きていくための方針を定めているだけであって、企業でいう経営理念と同じようなもの。この方針が自分らしさのようなものかもしれないし、生きづらさを防いだり、緩めたりするために必要なのかもしれない。
 

「佐々木さんだからこんなこと言えるんですよ」という言われるときもあるが、それは違う。
 

人間はアプリのようなもの。さまざまな考え方をインストールし、試していって自分のものになる。他の情報を手に入れない、試さない、試しただけですぐやめるから、うまくいかない。
 

一つ目は障害を持って生まれてきたことによる処世術のまとめ、二つ目は自己啓発系のセミナーで聞いた「正しさを手放す」という言葉、三つ目は特攻隊の基地があった知覧で感じたこと。生まれつきの考えや価値観ではなく、35年生きてきてやっと見えてきたもの。
 

自分の人生なんて、経験の組み合わせでしかない。自己分析が好きな人は、自分を語る言葉を持っている。
 

歩けなくなる未来
 

「歩けなくなる未来」なんて悩みは2,3日考えれば済む悩みではない。ああでもない、こうでもないと悩んで、解決するための考え方や情報を引っ張ってきて、やっと解決の糸口の先っちょが見える程度。僕の悩みは、実際のところ、テクノロジーが解決してくれると思うけれど。
 

2,3日考えただけで解決できる悩みなら、そもそもそんなに悩んでいないはずで、こびりついて取れない風呂場の頑固な黒カビのようなものだから、根気強く取り組まなくてはならないし、時には強烈な劇薬も必要になる。
 

それこそ、生きづらさなんてストレスと同じようなもので、適度になければ生きる意欲が湧かない。ちょっと生きづらいくらいが、生きていく上でのメリハリがある。多すぎたら減らさなくてはいけないし、少なすぎたらちょっと足したほうがいいくらい。そういうもの。
 

生きづらさがあるから自分と向き合える。「歩けなくなる未来」を想定することで、自分の未来が具体的になってくるような気がする。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。