「相手の要求を叶える人は、やさしい」という幻想

泣いている人や、ため息をついている人、不機嫌そうな人を見たら「何かあったの?」と声をかけるのがやさしさだと思っていました。
 

困っている人を見ると「なんとかしなきゃ!」という居心地の悪さを感じ、目が合えば、自分に助けを求められている気がして。わたしはそんなピリピリした空気が嫌いで、無言の圧力に耐えられませんでした。
 

「相手の要求に応えることが、いいとは限らない」と知ったのは福祉の仕事を始めてからでした。
 

やさしさ
 

わたしは今年で障害福祉の仕事を始めて8年目。いつの間にかそこそこ中堅になってしまいました。
 

福祉の仕事をしていると、本当にたくさんの人に会います。仕事を始めるまでは、要求の内容、表現の仕方、要求を通そうとするときの駆け引きがこんなにも人によってちがうとは知りませんでした。
 

泣く、黙る、自分のやるべきことを放棄する、笑顔でごまかす、物を投げる、自分を殴る、他の人を引っ掻く、暴れる…バリエーションが豊か。
 

きっと欲求不満状態に耐えられなくて苦しいのだろう、本人にもどうしようもないのだ、力になってあげたい…。本人から訴えがあるたびに、言うことを聞いていました。
 

本人の訴えを通すと、一時的にみんな楽になります。泣いている人は泣き止むし、暴力をふるうこともなければ、恨まれることもありません。
 

支援者だって暴れられるよりは、言うことを聞く方が楽。自分が少し我慢をすれば、場が丸く収まると思っていました。
 

しかし、後になって「自分は無責任なことをしていたんだ」と気づきました。
 

わたしは相手の要求を断ったときに騒がれたり、恨まれたりするのが嫌だっただけで、そんなのは、問題の先送りにしかなりません。
 

そうやって、学校や家庭内でワガママを通し続けた挙句、受け入れ先のなくなってしまった人に会ったこともあります。他の利用者の人だって大きな泣き声を聞くのは不快だし、機嫌が悪くなると暴力をふるかもしれない人の近くにいるのはビクビクします。そういう人を積極的に受け入れたがる場所は少ないので、将来の選択肢が狭くなっていってしまうのです。
 

本人の希望を聞き入れればいい、というほど単純なものでもなく、また、支援者にもできないことはあります。時には、うちでできる範囲はここまで、と譲らないことも大切です。
 

個人の行き過ぎた要求を叶えてしまうと、集団のバランスが崩壊してしまいます。とある一人に時間や労力を使っている間、他の人は放って置かれます。
 

ルールを守った人だけが損をする世界。ルールはわたしたちを縛るだけじゃなくて、秩序を守ってくれているのです。何度も失敗をして、ようやくそのことに気づかされました。
 

やさしさ
 

他の人の力を借りなくても自力で生きていける人たちなら、最初から福祉サービスはいりません。福祉サービスはそこから零れ落ちてしまう人たちが使うものです。
 

だから、他の場所と比べたら社会のルールを個人に強制することは少なく、場所にもよりますが、個人の事情に合わせることも多いものです。
 

ただ、人が集まればそこは小さな社会。ルールの無い、100%個人のための場所なんてどこにもないのです。
 

今も、迷いながら働いています。
 

「この人なら、大丈夫だろう」と見込んでグッと踏み込んで失敗して関係性を壊してしまったこともあれば、逆に「ちょっとこれはこの子にはむずかしいんじゃないかな…」と代わりにやってあげているうちに、舐められてしまうこともあります。勘が働くことは増えたけれど、それだって絶対ではありません。
 

結果を見てからあーだこーだ言うのは簡単ですが、現場はわからないうちに判断して行動していくしかないのです。その場で喜んでくれても長期的に見て本人のためになるとは限らないし、嫌がれても向き合うべきときもあります。本人の意思を無視していいと言うわけでもありませんが、すべてを受け入れることもできません。
 

何を選んでも、どこかで犠牲は出てしまいます。「やさしい人」なんて幻想。本当のやさしさは、望んでいるものとはちがうのかもしれません。
 

記事をシェア

この記事を書いた人

森本 しおり

森本 しおり

1988年生まれ。「何事も一生懸命」なADHD当事者ライター。
幼い頃から周りになかなか溶け込めず、違和感を持ち続ける。何とか大学までは卒業できたものの、就職後1年でパニック障害を発症し、退職。障害福祉の仕事をしていた27歳のときに「大人の発達障害」当事者であることが判明。以降、少しずつ自分とうまく付き合うコツをつかんでいる。
自身の経験から「道に迷う人に、選択肢を提示するような記事を書きたい」とライター業務を始める。