知的障害者に対して、どのように「運動×目に見える結果」を提供するかという、施設内での課題

障害者福祉サービス業は障害者総合支援法という法令に基づき「個別支援計画」というものを作成し、それに沿った日中活動や居住生活を提供しています。「落ち着いた生活をする」「出来ることの幅を広げていく」など、利用者本人や利用者の家族の意向を汲む形で個別支援計画は作成されます。
 

私が勤務する障害者施設には知的障害者しかおりませんが、利用者の人数分ある個別支援計画でよく見かけるのは「適度な運動をする」です。
 

知的障害者は言葉や学習の発達の遅れだけでなく、てんかん発作や糖尿など、色々な疾病を併せ持っている場合が多く、身体を思いきり動かす機会が増やせないことが否めません。そのため、ニーズとして「運動」が挙がってくるのでしょう。
 


 

知的障害者は、もともとの運動能力が平均より低く、運動能力の低下が始まるのも平均より早いとされています。ただ、体力測定する際に、いわゆる健常者ならば自らの意思で全力を出すことが出来ますが、知的障害者はそれが容易ではありません。「その運動能力がどこまで正確なのか」は少し怪しいなと思っていたりします。
 

また、これは研修で聞いた話ですが、握力測定で測定器を「もっと強く握って!」と言っても、そこに本人が腑に落ちる根拠や関心が無いと、最大の力を出そうとはしません。障害特性が原因の場合もあれば、単に障害者自身の性格による場合もあるでしょうし、その両方ということも考えられます。
 

私が目にする日常でも、みんなでやるラジオ体操ではあまり身体を動かさないのに、散歩や清掃の時は活発に身体を動かす利用者がおり、その様子を見て「筋力もあるし、身体の可動範囲も充分あるじゃないか」と思うことは茶飯事です。
 

余談ですが、知的障害者の中にはごく稀に、いわゆる”バカヂカラ”の人がいることが個人的に引っかかっています。その人が筋力トレーニングなどしている図が想像できません。いつか、知的障害者とアドレナリンの関係を調べてみたいです。
 


 

知的障害者を対象としたスポーツが、皆で楽しむことを主体としたレクリエーションスポーツやウォーキングなど比較的単調な運動に傾注するのは、障害特性と共に、障害の程度を問わず競争性が希薄だからという原因もあるのではないかと思っています。
 

ただ、日中を知的障害者と過ごしている者として感じることは、人と競い合う気持ちは世間より低くても、自らの行動に対する達成感、充実感は抱いており、それらを求めている人が確実に居るということです。
 

私が勤務する障害者施設では、内職のような施設内で出来る単純作業やフリーペーパーの投函作業を受託しています。チラシを2枚折りにして、それらをフリーペーパーに挟み込み、出来上がったものを職員がワッショイワッショイと積み重ね、紐で縛る。1、2工程ほどで終わる作業かもしれませんが、自らの労働が蓄積された結果を、視覚的に実感できることで充実感を得る人は多くいます。一方、グッズにラベルを貼る様な物理的に小さくてチマチマした労働はあまり好かれません。
 

おそらく、私のまわりにいる知的障害者は、自らが率先してジムでトレーニングするなどという感覚は薄いと思います。ダンベルを上げ下げしたり、一歩も前に進まない床を必死に走ったりする。頑張って汗をかいても報酬は発生せず、それどころか月謝まで払わなければならない。ううむ、やりそうにないな(こう書いていると、その考えの方がまともな気もしてきましたが)。
 

お金、人員、時間が潤沢でない環境で「運動×目に見える結果」を考え出し、提供すること。これは、口に出してはいませんが、私の心の内に秘めている重い課題の一つです。
 

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この記事を書いた人

エトウ アキラ