どの物差しで自分の価値を測るのか。すべては物差し次第。

高校生の頃、私は数学が他の教科に比べると得意でした。
 

とにかくなんでも厳密に証明することが好きで、また一方で、論理的に厳密でありさえすれば、どんなに自由な考え方をしてもいいという面白さに惹かれ、大学と大学院まで数学を専攻しました。
 


 

高校生までは、問題などを解くときに「この解法は思いつかなかったなー、悔しい!」と思うことはあれど、解説まで理解できないということはなかったように思います。
 

しかし、それも大学、とくに大学院までくると、そもそも何を言っているのかわからないという場面が度々出てきました。暑い夏の日に、冷房がついてなかった部屋で、机の前でひとり、たった1ページをなんとなくわかった気がするようになるまで、丸一日かかったことがあるのはいい思い出です。
 

大抵の数学専攻の研究室では、一年を通して読み進める本を選び、毎週先生の前で読み進めた内容について発表し、理解できているかどうかを指導教官と議論します。
 

時折、指導教官の気分がのってしまい、一人でどんどん独り言のように思考を進めることがあったのですが、思考のスピードについていけないこともありました。自分よりも優秀な人たちが「普通に、自然に、苦もなくできていること」が自分にはできない。そのとき、自分の能力の欠如を感じたと同時に、中学生や高校生のときに数学が苦手だった人の気持ちが少しわかった気がします。
 


 

彼らにとっては息をするようにできていることが、私にはできない。専門知識や経験の差なども絡んでいるので、単純な話ではない(と信じたい)と思いますが、こちらが努力で獲得したもの、努力しても獲得できなかったものを「息をするかのごとく」できてしまうひとが世の中にはいます。いわゆる「センス」というのでしょうか。大学、大学院という世界で痛感したことです。
 

これは、他の分野でもあるかもしれません。また、世間一般でいうところの健常者といわれる人たちも、日常のなにげないことが苦もなくできているので健常者といわれるのかもしれませんし、その反対側を障害者というのかもしれません。
 

どのような人を健常者といい、また障害者というのかというのは、結局、都合よく決められた物差しで区別しているに過ぎないと思うのです。そこには他者から決められた物差しもあれば、自分で決めつけてしまっている物差しもあるでしょう。その物差しを変えれば、誰だって障害者のカテゴリに入ってしまうこともあるでしょう。
 

言い方を変えれば、他の人では簡単にはできなくて、あなたなら難なくできるというような秀でたところがきっとあって、物差しを変えるだけで、秀でたところが見つかるはずです。
 

要は測る物差し次第だと思うのです。
 

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この記事を書いた人

中司 浩史