好きになった相手がほとんど男性だっただけで、僕は本当に同性愛者なのか。

異性愛を中心とした社会の中で、僕たち同性愛者というのはイレギュラーであり、マイノリティな存在です。
 

ただ、最近、ふと自問するのが、自分が好きになった相手がほとんど男性だったというだけであって、本当に僕は同性愛者なのかということです。
 

どちらかといえば、頼られるより頼りたいタイプで、愚痴りやすい自分の性格から包容力のあるひとを求めている。その結果、たまたま好きになった相手が男性なのではないか。今まで出会っていないだけで、自分の条件に当てはまる女性がいたならば、僕は彼女のことを好きになるのではないか。
 

もし僕が女性と結ばれることになったなら、僕は異性愛者になるのでしょうか。両性愛者になるのでしょうか。同性愛者ではなくなるのでしょうか。
 


 

僕は同性愛者の友人はいませんし(そもそも友人が少ないんですが)、「草食系男子」の性質がほとんど当てはまるようなタイプで恋愛経験もそこまでありません。好きになった相手もアラサーにして片手で数えられるくらい。だから、たまたま続けて同性を好きになっているだけなのではとさえ思ってしまいます。
 

過去の経験によって自分が同性愛者なんだろうという自覚はありますが、同じような境遇のひとたちのことは分かりません。
 

もし、僕が女性を好きになったならば。
 

同じ「僕」という存在であっても、好きになった相手の性別が変わるだけで、同性愛者というラベル越しに見られる僕と、異性愛者というラベル越しに見られる僕と、その見え方が変わるのでしょう。
 

偏見があるという前提で見れば、好奇な目で晒される僕と、自然な反応で受け止められる僕、とも言えるかもしれません。でも、僕の友人たちは変わらずに「僕」を「僕」として見てくれるはず。そう信じたい。
 

ただ、自然な反応で受け止めてもらえるようになるのは、むしろポジティブなことなのか。
 

誰が誰を好きになろうと、それは自由。でも、ここに性別の問題が加わってくると、話がややこしくなってしまうのでしょう。中心にいる「僕」は変わらないのに。
 


 

僕は数少ない友人に恵まれたせいか、同性愛者がよく経験するようないじめや悪口などを受けたことがありませんし、恋に恋焦がれるような熱さがないせいか、自分の状況に疑問も覚えなければ、すんなりと受け入れることができました。社会に出れば、仕事の話しかしなくて済むので、むしろ気が楽です。
 

僕たちのようなマイノリティを最近では「LGBT」と括っています。今の僕は「G:ゲイ」なのだと思いますが、異性愛者になれば「LGBT」という世界から出ていくことになるのか、男性も女性も好きになった経験があるから「B:バイセクシャル」になるのか、これも分かりません。でも、ここでも、僕の友人たちは「G」だろうが「B」だろうが変わらずに「僕」という存在を受け止めてくれると信じています。
 

異性愛者、同性愛者といった言葉やラベルに、僕ら自身も社会も囚われすぎているのでしょう。僕は僕でしかないのに。
 

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この記事を書いた人

飯島 圭太