子どもが欲しいひと、欲しかったひと。

前回の記事(「騙したかったわけじゃない、言えなかっただけ。」)で、僕が認定NPO法人ブリッジーフォースマイル(以下、B4S)で職員として働いているという話を書きました。このNPOは様々なプログラムを運営しており、その中で僕の仕事には、児童養護施設の在所者や退所者の個別課題に対して可能な範囲で支援をするというものがあります。
 

先日、とある若者の就労先を探す支援をしていた際、何気ない関わりの中でふと、あまり感じたことのない胸のざわつきがありました。その時にはそれが何の感情なのか検討もつかず、気になりはしつつも、その感情と向き合わない日々を送っていました。いま思い返せば、感覚的に向き合いたくなかったのかもしれません。
 

家族の影
 

僕は両親が22歳のときの子どもなので、それを基準に考えると、いま僕に子どもがいたとしたら中学生。その個別支援をしていた際、「いま自分に子どもがいたらこれくらいなのかな」と想像したのですが、たしか、胸のざわつきはその瞬間に感じました。僕はたぶん、子どもが欲しかったのだと思います。
 

僕は、ゲイであることを受け入れる過程で捨てたり諦めたりしたことがあって、その中でも『配偶者がいて子どもがいる』という、いわゆる一般的な家庭像はとても早い段階で捨てていました。だから今まで子どもが欲しいと思ったことはなかったつもりですし、むしろ子どもは苦手だという認識でいました。それがB4Sに入って、中高生と接するようになって、彼らとの関わりで捨てきれていなかった感情に気づいてしまったわけです。
 

それを親友に話したところ、「いまさら?」と言われたのですが、どうやら10年前くらいからそういう僕の様子は見えていたようで、もしかしたら気づいていなかったのは自分だけで、むしろずっと気づきたくなかっただけなのかもしれません。僕は人が変化をする瞬間や、変化をしていく過程を見ることが好きなのですが、大人は相応の時間が必要だったりします。ところが中高生は短い期間でも変化が顕著なので、子どもを育てていく楽しみや喜びの一つは、もしかしたらこういうことなのかなぁと想像するようにはなりました。
 

絵本に夢中
 

僕が関わっている仕事の中には、カナエールというプログラムがあります。進学への壁が高い在所者や退所者の、卒業までの資金と意欲を支援するという趣旨のこのプログラムのポイントの一つは、【顔の見える支援】です。様々な事情により児童養護施設で暮らす若者たちは、公の場へ出られない事情を抱えていたり、前回の記事で書いたようなカミングアウトの課題を抱えていたりします。社会的養護の問題に関心を抱いてくださる方がいたとしても、どのような若者に対して支援をするのかが見えにくい、という状況があります。
 

カナエール(夢スピーチコンテスト)は、舞台へ立つ若者の姿を会場で見ることができ、継続的な支援とともに、卒業までの彼らの成長や変化に触れることもできます。何らかの事情で子どもができない方や、子どもとは縁がないと思っている方。若者が大勢の前で未来と自分自身を語る姿を見ることで、『社会で子どもを育てる』ことについて、きっと何かを感じられるはず。
 

『社会で子どもを育てる』という考え方は、B4Sで働くまで、僕の中にはありませんでした。この言葉は、僕の気持ちを少し楽にしてくれたように思いますし、社会の希望になる言葉でもあると思います。最近は、ゲイやレズビアンカップルが子育てをしているケースも増えてきているようです。子どもが欲しかったという記憶を子どもが欲しいという感情に戻してあげても良いのかもしれません。
 

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