騙したかったわけじゃない、言えなかっただけ。

僕は普段、認定NPO法人ブリッジーフォースマイル(以下、B4S)で職員として働いています。この団体は、児童養護施設から社会へ巣立つ子どもたちが、未来への希望を持って生きられるよう支援する活動を、持続的かつ発展的に行っています。
 

児童養護施設の在所者や退所者と接する中で、興味深いと思ったことの一つは「俺は学校のみんなにも、施設で暮らしてるって言っている」「俺は言う必要がないと思うから言っていない」という、彼らの発言です。B4Sで働き始める前からある程度は想像していましたが、カミングアウトの問題はやっぱりここにもあるのだ、と改めて認識するに至りました。“わざわざ表現しないと分からないものを抱えている人たち”と関わっていくことは、僕が生きていく上で大事なテーマなのですが、彼らと関わることで、思考を深めつつ広げられているような気がしています。
 

B4Sでの活動を通じて、有川浩の『明日の子供たち』という小説と出会いました。そのなかで、こんな台詞が登場します。「別に騙してないもん!言えなかっただけだもん!」。施設で暮らしていることをオープンにしている女子高生と、ひた隠しにしている女子高生の喧嘩の場面での発言です。
 

観覧車
 

高校生当時、僕が葛藤していたことの一つは、カミングアウトしないことが騙していることになるのではないかということでした。前回、「カミングアウトをしたら嫌われるかもしれない」などの、自分の見られ方や感じ方について書きましたが、一方で、相手の立場に立ったときには、「今までの話は嘘だったのか」「今まで騙していたのか」と思われるのではないかという不安も抱えていたのです。何故なら、女が好きだという前提で、友だちとの会話を合わせていたから。
 

小説の中で、施設で暮らしていることを隠している子は、授業参観に来る施設職員を姉という設定にしており、その設定をベースに嘘の家族構成も考えています。僕が構築した異性が好きだという設定、小説の中の彼女が構築した家族がいるという設定は、日々を暮らしていく中で綻びが出ないように、友だちからのどんな質問にも答えられるように、嘘を嘘で固める必要があります。
 

嘘をつきたくて嘘をついているわけではないと自分を正当化する気持ちと、騙していることになるかもしれないという罪悪感と、いつかバレてしまうかもしれないという不安と、本音で会話のできない寂しさと、グチャグチャの感情を抱えながら、演技力だけが磨かれていく日々。異性が好きであること・両親に育てられていること、などの世間で言われる『普通』ではない自分が『普通』の友だちと日々を過ごすためには、『普通』を演じる必要がある、と考える方が容易なのです。
 

そんな風に自分を追い込むことになる原因の一つは、劣等感だと思っています。『明日の子供たち』では、「コンプレックス」と表現していますが、『普通』じゃない自分が友だちに受け入れてもらえるはずがないと考えてしまうのは、自分が『普通』でないことを受け入れられていないからです。自分でさえ受け入れていないものを他人が受け入れるはずがないのは道理で、でも苦しみの真っ最中には、そんなシンプルなことにも気づけないものです。年齢を重ねていくことによって、演じることに慣れていけば、カミングアウトしない理由はまた変わってくるし、高校生の頃の感情なんて忘れていくのですが、『明日の子供たち』を読んで、当時のことを少し思い出すことができました。
 

大人になっていくにつれて『普通』に大きな価値がないことにも、『普通』なんてそもそも曖昧なものであることにも気づいていくわけですが、同時に『普通』に憧れている自分にも気づいたりして、皮肉なものだなと思うことがあります。高校生当時の自分は『普通』の価値観がやがて変わっていくことなんて考えてもいませんでしたが、とにかく自分の中で、友だちと対等な関係になりたかった、それが当時の自分にとって価値のあることだったな、と振り返ることのできた、今回は貴重な機会でした。
 

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