障害を負ったことを嘆くより、生きているありがたみを感じるほうがいいんじゃない?

私は、普段は障害者関連の事業やスポーツ、障害者の便利アイテムなどの取材記事を書くことが多いですが、自分自身、右足を切断した障害者です。今回は、自分の障害とその受容までに至ったエピソードを書きました。
 

二輪草
 

小学校4年生(10歳)の時に、右足膝に骨肉腫(簡単に言うと、骨がガンになる病気)が発症し、切断をして義足となりました。手術の形態はローテーションと言われるものです。
 

ちなみに、国立がん研究センターの2010年発表によると、日本における骨肉腫の発症割合は、人口100万人に対して約2人(0.0002%)、全国で年間200人前後の人が新たに罹ると推定されています。年齢では10歳代が最も多く、女性に比べて男性に多い傾向にあるようです。
 

病気の初期症状として、「歩くたびに右足膝に激痛が襲う」という日々が続きました。先述したように、発症率0.0002%の病気ですので、私自身も含めて、誰もが骨腫瘍の可能性を疑うことはありません。痛みが緩和されない状況が数ヶ月続き、何度となく病院に通ううちに、たまたま外来に居合わせたその病院の名医の診察により病状が判明。専門病院を紹介され、即入院となりました。後述することになりますが、この偶然により私は命拾いをすることになるのです。
 

入院当時の私は、自分の病気について何も知らされておらず、自分が何で入院しているかも良くわからないまま、無邪気に患者仲間(全員ガン患者)である年上のお兄さんたちに可愛がってもらう日々を過ごしていました。良くわからないまま過ごした約3ヶ月間は、手術までに必要な検査などを行う準備期間だったのですが、当時の私は知る由もありませんでした。
 

ある日、主治医の先生に呼び出され、自分の病気について告知をされて茫然自失。しかし、ゆっくり落ち込む間もなく、手術の日が迫り、先ほどの写真の足の形となりました。術後の痛みなどがようやく落ち着いてきたころに、変わってしまった自分の足を眺めながら、「これから先、どうなるんだろう?」という葛藤が始まりました。その後は自宅療養が主となり、病院には定期的に短い検査入院などをしましたが、それも1年くらいのことで、病院との関わりは次第に薄まっていきました。
 

退院した後、自宅療養に加え、義足を履いてリハビリを行い、段々と歩くこともできるようになり、学校にも復帰することが出来ました。今から考えれば、片足一本くらいの軽度障害なのですが、当時の私には片足のハンディキャップが大きくのしかかり、社会に溶け込みながらも、「障害で損した」という感覚を抱え、生きることになります。
 

車いす
 

私は、20代の時に脳出血を発症し、入院と自宅療養で数ヵ月間、仕事を休んだ経験があります。発見が早く、九死に一生を得て、なんとか後遺症無しで社会復帰することが出来ましたが、会社復帰後に仕事を干されるなど、再び社会との断絶感を味わい、自分の人生は病気や障害に翻弄されてしまった、という後ろ向きの気持ちでいっぱいでした。
 

そんな私には「自分は生かされている」と感じた2つのエピソードがあります。
 

ー当時の患者仲間の半数以上が亡くなっていた事実
 

脳出血から回復して月日が経ったある日、子供時代のガン患者仲間である兄貴分と、十数年ぶりに電話をする機会がありました。お互いに当時を懐かしがる中、私の方から、「あの時のAさん元気かな?」と他の患者仲間の名前を出しました。すると、思いもよらぬ兄貴分の言葉が返ってきたのです。
 

「そうか。雄太は小さかったから誰も知らせなかったんだな。あいつは死んだよ。病気の発見が遅くて、腫瘍が肺に転移してな」
 

自分の中で何かが崩れた感覚に襲われた私は、矢継ぎ早に質問を繰り返しました。
 

「じゃあさ、他に一緒だったBさんは、Cさんは…!」
 

兄貴分は、言葉を選びながら声を落として言いました。
 

「みんな死んじまったよ。やり切れないよな。みんな20代だったのに。俺ら、生き残っただけでも、運がいいと思うよ。あの時にいた人間の、半分は死んでるよ」
 

私の場合は、あの名医のおかげでガンが早期発見され、命拾いをしたわけです。兄貴分から聞いた衝撃の事実に、その日は眠れない夜を過ごしました。
 

ー幸せ絶頂期に心筋梗塞で逝ってしまった小中学校時代の友人
 

時を同じくして、小中学校時代の地元の友達から、数年ぶりに電話が入りました。開口一番、「Dって覚えてる?」とのこと。私は、てっきりDの結婚式でもやるのでその連絡かと思ったら、
 

「あいつ、死んだんだよ。その葬式の連絡だよ。」
 

原因は、寝ている間の心筋梗塞、いわゆる突然死でした。連絡を受けた翌々日に、既に離れている地元に数年ぶりに戻り、Dの葬式に参列しました。しかし、久しぶり過ぎてDの死を実感することは出来ず、涙も出ず、棺桶の中にいるDを見て、「無念だったろうな」とただ手を合わせるだけしかできませんでした。
 

このとき、Dは既に結婚をしており、奥さんのお腹には赤ちゃんがいました。幸せの絶頂が、一夜にして悪夢に変わってしまったのです。地元から離れていることもあり、その後、残されたDの家族がどのように暮らしているのかは、私にはわかりません。
 

私は、自分と関わりがあって、不本意ながらに先に逝ってしまった方たちの分まで生きようというような大それたことを言うつもりはありません。むしろ、不謹慎ながら、自分は生きていてラッキーだなという想いがあります。たとえ障害が残ったとしても、私のように2回死にかけても生きている人間はいますし、障害があろうがなかろうが、1回で死んでしまう人間もいるということを肌で感じました。ちなみに、Dは健康そのもので、亡くなるまで大きな事故や病気をしたことはなかったようです。
 

ー生かされていることに感謝はすべきだが、無理に立派に生きる必要もない
 

「自分(人)は生かされている」という論調の記事はよく目にしますし、大体その次には「だからこそ、立派に生きよう」と展開されます。実際に私自身も「障害を乗り越えてきた堀さんは立派ですね」と言われることもありますが、残念ながら、私はそれほど立派な人間ではありません。単に自分の興味・関心の向くまま、「普通」に生きているだけです。ただ、その「生きている」ということが何よりもありがたいなと感じるのです。障害を受容することも大切ですが、それ以上に生きていられるからこそ、どう楽しく生きようかと考えるほうが大切なのではないかと思います。これはひょっとすると受容した後に考えられるという順序の問題もあるかもしれません。
 

もちろん、「生きていてよかった」だけでは人生は進んでいきません。しかし、障害を負うことや他にも何かにつまずいてしまった時、「生きている」というすべての根本に思いを巡らせてみる価値はあると思います。特に私のように、病気を経て障害を負った場合はなおさらかもしれません。
 

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この記事を書いた人

堀雄太

野球少年だった小学4年生の11月「骨腫瘍」と診断され、生きるために右足を切断する。幼少期の発熱の影響で左耳の聴力はゼロ。27歳の時には、脳出血を発症する。過去勤めていた会社は過酷な職場環境であり、また前職では障害が理由で仕事を干されたことがあるなど、数多くの「生きづらさ」を経験している。「自分自身=後天性障害者」の視点で、記事を書いていきたいと意気込む。