3つの転機がもたらした、発病以来なかなか感じられなかった「生きやすさ」【脳脊髄液減少症】

何らかの理由で脳脊髄液が脊髄より漏出または減少して身体に様々な不調をきたす難病・脳脊髄液減少症。20代半ばでこの病気だと診断された重光喬之さんは、この10年間、脊髄にそって首から腰にかけての激痛に絶え間なく襲われ続けてきました。
 

激痛とそれに伴う絶望感から一時は死すら考え、ここ最近でも精神的ストレスがピークに達して鬱状態に陥っていた重光さん。しかし、この1か月間で訪れた「3つの転機」が、重光さんの状況や精神状態を一気に好転させたそうです。病気による彼の慢性的な「生きづらさ」がいかに緩和されたのか伺ってみました。
 

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痛い、苦しい、でも人には弱いところを見せたくないー

 

「脳脊髄液減少症」の症状は人によって様々ですが、重光さんをずっと苦しめてきたのは「激しい痛み」でした。
 

ヘルニアになったことあります?あとは親知らずを抜いた後の痛みとか。まあすごく痛いんですけど、あの痛みが24時間365日続く感じです。楽しい話をしていても、美味しいものを食べていても、「楽しい」「美味しい」の前にまず「痛い」がくる。人といても痛みで頭の中がいっぱいで一緒に楽しめず、みんなと笑っている時もどこか遠いことの出来事のようでした。痛みのストレスで円形脱毛症にもなりましたね。

 

痛みに苦しむあまり円形脱毛症に
痛みに苦しむあまり円形脱毛症に

 

20代半ばで「脳脊髄液減少症」との診断を受けたのち、激痛で仕事にも支障をきたすようになった重光さんは2度の退職を経験します。痛みを抱えながらも自分の人生と向き合った重光さんは「社員も幸せになるような会社をつくりたい」「誰かのためになるようなことをしたい」との思いからビジネススクールに入学し、30過ぎで起業。知的・発達障害児が通う放課後施設の支援、福祉現場と社会の接点を増やす取り組みをしてきました。志を共にする仲間もできましたが、四六時中襲ってくる激痛と闘っていた重光さんは「人に頼ることができなかった」と言います。
 

もともとなんでも自分でやらなきゃ気が済まず、人に何かを任せることに抵抗があるタイプなのですが、病気になってからはそれがより顕著になりました。「人に【できない】と思われたくない」「サボり・怠けだと思われたくない」という思いから、他人に自分の弱いところを見せないように気を張っていました。自分に嘘をつくんですよ。痛みで心ここにあらずでも、いつも「痛くない自分」を演じていました。その演技もだんだん破綻していきましたが、そうしないと仕事も他者との関わりもできなかったんです。

 

「痛い自分はここにいない」そうして重光さんはここ数年間自分を騙し続けながら、生きてきたと語ります。
 

「諦める」「人に伝える」「合う薬が見つかった」3つの転機が重なり、人生が一気に好転した

 

そんな重光さんに、立て続けに転機が訪れたのがつい最近、年が明けてからのことでした。起業後は気を張りながら忙しなく働き続け、ここ半年間は新たなプロジェクトに参加して更に自分を追い込む日々を過ごしていた重光さんは、一昨年の末、ついにプレッシャーとストレスの限界を迎えました。家で仕事をやろうとしても全然進まず、気力を喪失して半ば鬱状態に陥り、その年の年末年始はほぼ寝たきりの生活に。動けなくなった重光さんは、ネガティブになる思考の中でひとつの気付きを得ました。
 

仕事ができなくなったときに、ふと「あ、別にこの仕事辞めてもいいのか」「誰かに頼まれたわけでもないし」と気付いたんですよ。それまでは「自分がやらなきゃ」っていう使命感がすごくあったですけど、急にそれがなくなって「自分で選択してやっていたことなんだから、辞めることも自分で選択していいんだ」と思えて。この感覚がすごく大きかったですね。

 

人に弱さを見せず、なんでも自分でやろうとすることを「諦める」。完璧を目指しがちだった自分を良い意味で「諦める」。もともと重光さんは几帳面な完璧主義者で、人に迷惑をかけないようにルールや期限は可能な限り順守していましたが「もっとわがままに、人に合わせず自分のペースで生きよう」と思い直したそうです。その決意が、痛みとストレスから重光さんを解放する大きなきっかけの1つになりました。そして次の転機が訪れたのは、仕事仲間に「痛みに耐えられないから、仕事を辞めるか迷っている」と本音を打ち明けたときでした。
 

仲間は「いいんじゃないの?」と言ってくれました。そして、その数日後に自分が行くはずだった大切な仕事に「俺が代わりに行くから大丈夫」と自分を気遣ってくれて。自分の気持ちを初めてちゃんと伝えて、仲間が受け入れてくれたことで、なんだか急に気が楽になりましたね。

 

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周りはどうせこの病気のつらさを分かってくれない。弱い自分を見せてはいけない。どうしても人に頼ることが難しかった重光さんにとって、このカミングアウトは本来なら発信しづらい「他者に弱味を見せる行為」になります。しかし、この決意がプラスの結果を生み出しました。重光さんからの告白を仲間は肯定的に受け止め、本音を打ち明けたことで気持ちが楽になった重光さんは、逆に仕事を続けていく意欲が湧いたそうです。
 

そして、3つ目の転機は「薬」でした。新たに医療用麻薬を昨年末から使い始めた重光さん。過去に使っていたものの途中から効果が減ってきたために使用を中断していた薬(痛みの脳内伝達物質の調整薬)を年始の1月半ばに再開した結果、その組み合わせが功を奏したのか、重光さんは失っていた気力を取り戻しました。痛みは抱えつつも、仕事には精力的に取り組めるようになったのです。
 

諦める決意を周りに伝え、周囲の理解や受け入れ、さらには協働に発展したことと、自分に合う薬との出会いがたまたまタイミング良く合致したことで、大きな変化が自分に訪れました。今はとても気持ちが晴れていて、数年ぶりに自分に自信を感じられています。仕事にも前向きに取り組めるようになって、忙しくても「大丈夫、できる、これならやっていけそうだ」と希望を持てるようになりました。

 

ただ、痛み自体がなくなったわけではなく、もしかしたら今の前向きで嬉々とした気持ち自体も薬の効力かもしれない。そんな懸念を抱きつつも、病気を診断され、3度の治療を行いても改善しないまま、数年間ずっと曇り続けていた気持ちが久しぶりに晴れて、「今、自分は自分の人生を生きている」と思える感覚を今は楽しんでいたいと、重光さんは語っています。
 

同病者の方に伝えたい「諦めていいもの」と「諦めてほしくないもの」

 

今回のエピソードはあくまでも重光さんのケースであり、「重光さんと同じ薬を使えば症状が改善する」など具体的な治療方法を推奨するものではありません。ただ、重光さんの経験の一部を切り取って自身に応用することで、何か今より少しでも状況が変わることはあるかもしれません。病気が完治する未来が見えず絶望する同病者の方に向けて、重光さんは「諦める」を切り取ってこんなお話をしてくれました。
 

この病気は、完璧な治療法が見つかってないので、現時点で完全に治癒することは難しいです。特に慢性化してしまった人は、周囲の支え無しに生き行くのは不可能に近い。だから、完全復活を目標にしてしまうと、ゴールの見えない、永遠に続く闘いになってしまう。逆に「もう治らないかもしれない」と諦めれば、「改めてこの病気、症状とどう付き合っていくのか」と考えることができますよね。治療法や薬にはその都度期待しすぎずにゆっくり探していけばいい。その代わり、治らない前提の中で自分なりの目標やゴールを持つことが大切です。買い物に行けるようになりたいとか、自分でお金を稼ぎたいとか、どんなことでもいい。それぞれの目標があればいいと思うんです。

 

希望の見えないところから、いきなり自分で目標を立てるのはなかなか難しいように感じますが、重光さんご自身は、仕事やプライベートに関していろいろな目標を持って日々を過ごしています。脳脊髄液減少症に特化したサポートサイトの準備をしている今、同病者の目標設定を後押しできたらとも考えているようです。そのサイトでは、同病者の症状緩和の工夫や生活の知恵、社会復帰した人の事例を共有する仕組みを作るそうです。
 

先日無事に目標金額を達成したクラウドファンディング
先日無事に目標金額を達成したクラウドファンディング

 

同病者には、病気を理由に人との関わりまでも諦めている人がいっぱいいます。でも、そこは諦めてほしくない。積極的じゃなくてもいいから、人に対して完全に心を閉じないでほしい。もちろん無理強いしたいわけではないです。自分も、家族からの理解は難しい状況にありますし、もともと人に心を開きにくかった人間ですが、今回仲間にちゃんと気持ちを伝えて「あ、人との関わりっていいな」と実感できました。そんなタイミングが来るかもなぐらいに思えていたらいいですかね。

 

今、連絡を取り合っている同年代の同病者がいるのですが、その人と知り合って初めて病気のことを偽らずにありのまま人に話すことができたんです。かつて「あなたの痛みは誰にも分からない」と諭されたこともあったけど、自分にはやっぱり「分かってほしい」という気持ちがあったんです。初めてお互いのつらさを分かり合える人と話せたときの、この嬉しさや感覚を、同病者向けのサービスにも活かせたらなと思っています。

 

「病気(の完治)は諦めていい」と伝える一方で「諦めないでほしいこともある」と言う重光さん。人に頼れず、人に弱みや本音を見せることができなかった重光さんが取材の最後に発した言葉が「人との関わりは諦めないでほしい」というものであることが、私にとっては非常に印象的でした。
 

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この記事を書いた人

真崎 睦美

平成元年生まれのフリーライター。前職は不登校支援の仕事に従事。大学時代は教育の道を志す「the 意識高いキラキラ学生」だったが、新卒入社した会社を2か月でクビになり、その後務めた会社を2か月で退社して挫折。社会人2年間で2回の転職と3社の退職を経験し、自らの「組織不適合」を疑い始めてフリーに転身する。前職時に感じた「不登校生は〇〇だ」という世間的イメージやその他の「世にはびこる様々な偏見」を覆していくべく、「生きづらい」当事者や支援現場の声や姿を積極的に発信していく予定。人生の方向性は絶賛模索中。