カミングアウトをしている世界と、していない世界。そのバランス。

39歳、男性。東京在住。会社員。そしてゲイ。
 

僕にはカミングアウトをしている世界と、していない世界があって、なんとなくそのバランスを取りながら、毎日暮らしている。
 

20160722
 

世間一般の39歳と言えば、会社では肩書きがついて、相応の責任を負担する立場になり、家に帰れば奥さんと小学校にあがるかあがらないか位の年頃の子供がいて、といったイメージだろうか。会社に関しては、僕も同じだ。
 

そしてふとした会話から所帯を持っていない事実に話題が及ぶことも多い。その都度、相手は若干戸惑いながら、好奇心半分の詮索をすることもしばしば。けれどそんな場面にももう慣れた。受け流すやり方も知っている。所帯を持たない頼りなさについては、結果で認めさせるしかないと思っている。そして多分この先も、この会社の中でカミングアウトすることはないだろう。
 

カミングアウトについてひとつだけ考えていたことがあるとすれば、仕事については、セクシュアリティと結びつけて評価されたくない、ということだった。昔から、気配りが細やかだとか、発想がいいだとか、との業務上の評価を頂くことが多かった。そしてそれにはゲイ的な資質もいくらか影響をしているような気もする。ただ「ゲイ」という一言だけで評価をされたくない。
 

カミングアウトには、自己開示を通じて、或る種の煩わしさを取り払い、自分らしい居場所を確立していくイメージがある。ただ反面で、そのレッテルの中に自分自身を押しこめてしまうリスクもあるのでは、とも思う。自分は自分。ゲイであることは、自分をつくる一部であって、大きな要素かもしれないが、全部ではない。

※もちろん現在勤める元国営の、お堅い会社でなければ、もっと違ったセルフプロデュースを考えるかも…
 

20160722②
 

一方、プライベート。
 

僕のセクシュアリティを僕の両親は知っている。そして両親にカミングアウトした時の情景をよく覚えている。土曜の昼下がり、バツが悪くて逃げようとする僕を、母が押しとどめて3人で昼飯となった。冷やし中華をズルズルすすりながら、普段無口な父がぽつりぽつりと言った言葉。
 

「気づいてあげられなくて、今まで辛かったな」
「性なんて曖昧なものだ」
「これからも何も変わらないから」
「ただ、この先はよくよく慎重に生きていけ」と。
 

それは秋に急逝した父と、まともに話した最後の記憶でもある。
 

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カミングアウトに至る葛藤やマイストーリーは、年代によって変わる。あまりに軽く周囲へ打ち明ける若い世代の話を聞けば、うらやましくも思うが、僕はと言えば、言いだすきっかけもなく思春期を過ごしてしまったクチ。大人になってからは、大人になってまで親に心配をかけたくないとも思っていた。結局は、ひょんなきっかけから両親にカミングアウトすることになったが、結果としてはとても良かったとは思う。なにより彼らの言葉は僕を強くしてくれた。
 

ありのままの自分を受け入れてくれる場所は、あった方がいい。それは家族だったり、友達だったり、どこでも誰でも。もしセクシュアリティに限らず、そうした悩みを抱えている人がいたら、そんな居場所を、小さくてもよいのでつくるように、個人的な実感をもとにすすめたいと思う。
 

話はかわるが、先日、10年以上の付き合いになるパートナーが飼っている犬を、一週間ほど母と暮らす我が家で預かった。小型犬とはいえ年老いた母にはそれなりに負担だったと思うが、すぐに打ち解け、犬を彼の家にかえすときには名残惜しそうな顔もしていた。そして母が初めて、彼宛の手紙をもたせくれた。
 

10年以上付き合いながら、彼と母の間には面識がない。母は彼の顔も知らない。そして知ろうとしない。複雑なのだ。けれど、いつも息子がお世話になっています、から始まるその手紙は、犬との一週間にふれながら、僕らの関係を気にかけていた。不器用な母の優しさがにじんで見えた。
 

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この記事を書いた人

鈴木 太郎