不登校の私に必要だった安心できる場所

私は30代に突入したばかりですが、10代、20代と自分の不器用さゆえに様々な体験をしてきました。生まれつき悩みやすい性格と人生の困難が災いし、2度の大きなうつ病を経験した後、現在も薬物治療を続けています。
 

10代の頃に経験した不登校。それは、最後の転校をした小学6年生の頃でした。私は大学生になるまで、学校という場所が好きになれませんでした。その理由は主に、父親の仕事の都合で転校を繰り返したことにあると思います。
 


 

物心ついた頃から2、3年毎に引越しを繰り返す生活が続き、幼稚園から小学校まで5回の転校した私は、最後の転校のタイミングで、とうとう頑張る気力がなくなってしまいました。
 

その直前の5年生のとき、良い友人たちに恵まれ、やっと笑いのある毎日が送れるようになった矢先の出来事だったため、大切な何かを奪われたように感じ、未来に希望が見出せなくなったのです。
 

転校直後に1週間だけ学校に通った後、私は家に引きこもりがちになりました。学校に行っていない罪悪感に苛まれつつ、息を潜めるように自分の机で時間を過ごしました。考え込んだり、時々詩を書いたり。私は時が勝手に流れてくれるのを待ちました。
 

そんな私のことを両親は理解に苦しみ、ある日、父は力ずくで私を学校に連れて行こうとしました。
 

父にとっては「学校に行かない」ということ自体、ありえないことだったのだと思います。だから、驚きを通り越し、怒りの感情をもったのでしょう。
 

「なんで学校に行けないんだ!」と怒鳴りながら、泣き続ける私の手を引きずり校門まで連れて行きました。父は必死で校内に私を入れようとしましたが、私は断固としてそれを譲らず、とうとう父の手を振り切って家へ駆け戻ったのを覚えています。
 


 

この1件は私にとってトラウマのようになりました。父は、何とか学校に行かせたかったようでしたが、ますます学校から足が遠ざかってしまいました。一方、母は無理に「学校に行け」とは言いませんでした。それでも、心の中では「どうしたものか」と悩んでいるのがよく伝わってきました。姉、そして年の離れた弟も私にどう接していいのか戸惑っている様子でした。
 

みんなに迷惑をかけていると感じた私は、家のベランダに出ては地面までの高さを目で測るようになりました。家で1人になったときには、台所から包丁を取り出したこともあります。自分は皆に迷惑をかけるばかりの罪な存在だという感情は、この頃から急激に心の中でその激しさを増していきました。
 

そんな自殺願望について、姉に打ち明けたことがあります。姉はその後、自分が通う中学校の課題で、私の不登校と自殺願望について書いたと報告してきました。さらにしばらくして、母から「〇〇さんの妹さんが自殺を考えられているそうですが…」と姉の担任教師に聞いたと伝えられました。
 

私は自分のどうにもできない苦しさや辛さが、何か奇怪な対象として注目されているように感じました。それは、何とも言えない居心地の悪さであったことを覚えています。
 

学校へ行けない日が続く中で、親の勧めもあり、中学受験を決めた私は、新しい環境へ移れば新しい自分に変われるかもしれないと希望を持ち始めました。その「何とか前進できるかもしれない」という希望が心の中で次第に存在感を増し、結果的に自殺願望から私を救ってくれたと感じています。
 


 

自分から不登校になりたくてなっている子はいません。親から見ればふてくされているだけ、怠けているだけのように見えたとしても、心の中では罪悪感や自己嫌悪など様々な感情が渦巻いています。その感情たちで心がいっぱいになり、それでも自力で何とかしなければと精一杯になるあまりに、口数が減り表情が乏しくなってしまうのです。
 

私の父は、心配する親心から学校に連れて行こうとしたのだと今では理解できますが、実際には何の解決策にもなりません。学校や周囲に対する恐怖感がさらに増していくだけです。
 

不登校になってしまう子は本当の意味で「安心できる場所」を求めているのだと思います。安心できる場所とは、自分の感情を否定せず、先ずはそのまま受け入れてくれる人間の心だと思います。耳を傾ける時間、いつまでも待つよという姿勢、あなたを嫌いになんてならないよという安心感。これが大切なのではないでしょうか。
 

しばらく学校へ行けなくても、後からその分は取り返せます。しかし心が完全に壊れてしまったら取り返しはつきません。社会的にそんなこと通用しない、ワガママを言っているだけだと理解に苦しんでも、そんな世間体より人間の心を優先する家庭や社会であってほしいと切に願います。
 

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この記事を書いた人

吉本 なつ実