「生きづらくない状態」とは「自由であること」。じゃあ、自由ってどういうこと?

私は四肢麻痺があり、車椅子で生活しています。
 

四肢麻痺者として、車椅子ユーザーとして、「生きづらくない状態」とはどういうことだろう?と考えたとき、私にとって重要なキーワードの一つとなるのが「自由」です。
 

ひとくちに「自由」と言っても様々な視点や要素があり「自由とは何か」を一言で表すことはなかなか難しいので、私にとって自由の象徴と感じたエピソードをいくつかお話させてください。
 

自由とは、例えば独りで移動できること。

 

私は自分で車椅子を漕げないことはないのですが、握力も腕力も弱く、非常にゆっくりとしか進めませんし、少しでも傾斜があろうものならギブアップです。そのため、高校時代まで、外では家族や友人や学校の先生に車椅子を押してもらっていました。つまり、移動の際は必ず誰かがいないと立ち行かなかったわけです。
 

そんな私も、大学入学を機に、外出時は電動車椅子を使うようになり、それが私に大きな自由をもたらしました。
 

それまでは誰かと一緒でなければ、外出や学校内での移動が不可能だったのですが、電動車椅子があれば、仕事にも買い物にも友人との待ち合わせ場所にも好きなアーティストのライブにも、基本的には独りで行くことが可能です。
 

もちろん、移動中や外出先でのあれこれをすべて自力でできるわけではないので、ときには付き添いが必要なこともありますし、外出先で人の手を借りることも多いです。それでも、自力で移動できる手段を得たことは、私にとってとても大きなことでした。
 

“移動”は、生きていく上で必要不可欠な行為です。そして「生きていく上で必要不可欠な行為すら、いちいち誰かの手を借りなければならない」というのは、とても煩わしいことです。私は電動車椅子という移動手段を得たことで、行きたい場所へある程度は自由に行けるようになり、人生の煩わしさの一部が解消されました。
 

また、自力で移動できるということは「独りでいるか、誰かと一緒にいるか」という選択権を得ることにつながります。自分の生活において選択権があるということも「自由」の重要な要素であると思います。
 

電動車椅子を使い始めて20年弱が経ちますが、いまだに街中を独りでうろうろしていると「何て自由なんだろう!自由って、何て素晴らしいんだろう!」と心躍ることがあります。私にとって電動車椅子は、自由の出発点と言っても過言ではありません。
 


 

自由とは、例えば思い立ったときにパエリアの素を買いに行けること。

 

会社勤めしていた頃、仕事中に急にパエリアが食べたくなりました。とはいえ、パエリアの美味しいお店を調べて、友人を誘って予定を合わせて…とやっていると日が過ぎてしまうので、とりあえず職場の近くでパエリアの素を買って帰りました。
 

そのとき、私にとってはこれが自由の象徴だな、と思ったのです。ふと思い立ったときに欲しいものを独りで買いに行けることは、何て自由なことだろうか、と。
 

多くの人にとって「自由」と意識するまでもない当たり前のことかもしれませんが、それを当たり前にできない人もたくさんいます。
 

欲しいもの(それも、生活必需品ではないもの)を、欲しいときに独りで買いに行くためには、クリアすべき複数の要素があります。
 

・ある程度好きに使えるお金と時間がある(経済的、時間的余裕)
・独りでお店まで行ける(物理的バリアフリー、電動車椅子という移動手段など)
・独りで買い物できる(棚の商品を取ってほしいと店員に頼む能力など)
 

こういった要素がすべて揃っていないと「欲しいものがあって、今日買いに行きたい」となっても、すぐに買いにいくことはできません。これらは簡単なようでいて、環境や様々な状況しだいで容易にハードルが高くなります。だからこそ、私はこの取るに足りない日常のひとコマを「大きな自由」と感じます。
 

理想の生活とはどういうものかと聞かれれば、私は一つの例として「何日も前から他の人に頼んだりしなくても、ある程度好きなときに行きたいところへ行って、買いたいものを買える生活」と答えます。
 

高価なものを望んでいるわけでも、しょっちゅう遠出したいわけでもありません。ただ、多くの人が日常生活の中で特に「自由」とも感じずに手に入れている自由を、私も確保したいだけです。
 


 

自由とは、例えば自分の責任において電車を乗り過ごせること。

 

ほとんどの電車はホームとの間に大きな隙間と段差があり、車椅子ユーザーが独りで乗り降りすることは難しいです(腕力があって自力で乗降する車椅子ユーザーもいますが)。そのため、駅員さんに板を置いてもらうことになります。
 

乗車駅で目的地を伝えると「何時何分の何号車に電動車椅子1名」と降車駅に連絡してくれ、降車駅のホームで駅員さんが板を持って待っていてくれます。降車駅に連絡が取れて迎えが確約されるまで、電車に乗ることはできません(中には、先に乗せてくれる鉄道会社もあります)。ですから、電車を一、二本見送ることはよくあります。
 

また、板がないと降りられないので、乗車中に気が変わっても途中下車は困難です。
 

通常、車椅子ユーザーの電車事情はそんな感じなのですが、私の生活圏内には、駅員さんに頼まなくても独りで乗り降りできる路線が一つだけあります。電車とホームの間に隙間や段差がそれほどないので、電動車椅子でスイスイ乗り降りできるのです。私は一時期、その路線を使って通勤していました。
 

ある朝、いつものように電車で職場へ向かっていたのですが、気が付くと職場の最寄り駅に着いていて「あっ!」と思った瞬間に電車のドアが閉まってしまいました。恥を忍んで書くと、好きなアーティストのインスタグラムを見るのに夢中だったのです。何とアホな…。
 

それで慌てて次の駅で降り、一駅引き返しました。幸い、遅刻はしませんでした。
 

実は、電車を乗り過ごしたのはそれが初めてでした。
 

駅員さんの介助が必要な路線(つまり、ほとんどの路線)なら、こんなことは起きません。降車駅のホームで駅員さんが待っているので、私がボーっとしていれば声を掛けてもらえます。
 

引き返すために反対方向の電車をまだかまだかと待つ間、私は「やっちゃったなぁ」と少々凹みながらも「自由ってこういうことなんだ!」と歓喜してもいました。
 

大きな隙間と段差さえなければ、私は独りで乗りたい時間の電車に乗り、降りたい駅で降りられます。「自分の不注意による乗り過ごし」を経験することもできます。そして、次の駅で降りて反対方向の電車に飛び乗り、失敗を修復することも可能なのです。
 

車椅子ユーザーが自分の不注意で電車を乗り過ごせる環境、状況というのは、とても素晴らしく、画期的なことです。それは、他の誰でもなく、自分の責任で電車を利用できるということです。
 

責任を負える自由。好きなアーティストの写真に見とれて乗り過ごすという、アホな失敗ができる自由。
 

日常に散りばめられた無数の自由を当たり前に享受できる環境だと気付きにくいことですが、自分の責任において失敗を引き受けることができるのは、実は大きな自由でもあります。
 

駅員さんの手を借りて電車を利用するとき、大げさに言えば、私は庇護と管理の対象であり、私の自由は他人の手に委ねられています。
 

先ほど「電車を乗り過ごしたのはそれが初めて」と書きましたが、厳密に言えば以前に二、三度ありました。それは、駅どうしの連絡ミスがあったのか、降車駅にいるはずの駅員さんがいなかったときです。私は慌てふためいてしまい、周囲に手助けを求めることもできないまま、ドアが閉まってしまったのです(近くの乗客にお願いして、次の駅で降ろしてもらいました)。
 


 

こういう経験があるので、自力で乗り降りできない路線を利用するときは、降車駅に駅員さんが待ってくれているかどうかドキドキします。独りで降りられる電車のほうが、よほど気が楽です。気楽に乗っていられたからこそ、携帯の画面ばかり見て乗り過ごしたのかもしれません。
 

自分の不注意で電車を乗り過ごしてしまうのと、自分以外の誰かの責任で電車を乗り過ごさざるを得ないのとでは、意味合いがまったく違います。前者は自分で解決できることですが、後者は自分ではどうにもならないことです。後者の事態に直面したときは、「電車の乗り降りという日常の営みの自由さえ、他人の手に委ねられているのだなあ」と感じ、そういう人生が煩わしくなってきます。
 

それに引き換え、乗り降りも途中下車も好きなようにでき、乗り過ごすかどうかも自分の手に委ねられている電車は、人生の煩わしさから解放してくれるものです。
 

自由を感じるとき、私は生きづらさから解放されて、人生を謳歌していると実感できるのです。
 

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この記事を書いた人

桜井弓月