足が悪いのにすごいねって何がすごいの?「障害がある」というフィルター越しの評価。

息子が3歳になりました。歩くこと、走ることに、現時点では問題のない息子の姿を見ていると、自分と同じような障害がなくてホッとしていることに気づきます。生まれた瞬間、手と足の指を合計20本数えたことは、昨日のことのように憶えています。
 

私が3歳の頃は…と言っても、全然記憶にありませんが、まだ小さかった頃を思い出すと、よく「頑張れ」とか「負けるな」とか「すごいね」とか、そんな声かけをもらうことが多かったように感じます。
 

普通に頑張っているだけなんだけどなあ。何に負けそうなのかなあ。声かけの言葉の前に、それぞれ「障害があるのに」「障害があっても」という枕詞があったことを知ったのは、小学校高学年になってからだと思います。鈍感で良かったかもしれません。
 


 

テストでいい点を取ったことが伝わると「足が悪いのにすごいね」と言われたこともありましたし、近所のおばちゃんから「きっといいことがあるよ」と何も困っていないのに言われたこともあります。冷静に見れば、ロジックはめちゃくちゃ。でも、小さい頃の素直だった私は、真っすぐにありがたく受け取っていました。
 

障害があるという状態は、自分の行動や結果に対する期待値を自動的に下げてくれていたのかもしれません。また、巧みに使えば、自己肯定感や自己有用感を簡単に高められるものでもあります。私自身も無意識的に使っていた気がします。障害があってもこれくらいできるってすごくない?という自己暗示。生まれながらに障害が傍らにあったからできる、ひとつのライフハックでしょう。
 

自分が小さいときに褒められたことや評価されたことは「障害があるのに」という条件下の中でのものだったのか、それとも障害の有無など関係ない条件でのものだったのか。自分の子どもの成長を見ながら、ちょっと気になっています。
 


 

気になりつつも、答えはほぼ出ていることで、「佐々木さんが障害者だから発注するよ」という環境ではなく、いまだ貧乏暇なし、働きアリ状態だということは、障害者だからといって赦してくれる環境で生きていないのでしょう。自分の障害を題材に原稿まで書いているのだから、こちらから障害を巧みに利用していることもまた事実です。
 

もし「障害があるのに」という枕詞を汲み取らず、自分は期待されている、すごい存在だと思い続けて育っていたならば、それは想像するだけで背筋が凍ります。いわば、障害者補正という期待値調整の中で育った障害者が、例えば、障害を言い訳にできないようなビジネスの世界で生きる。これでは、心がボキッと折れてもおかしくはありません。
 

「頑張れ」だとか「負けるな」だとか「すごいね」だとか。もし、その相手が障害者でなかったならば、同じ基準で声かけをするのでしょうか。障害が理由で下がった期待値を反映した状態で行う声かけが、10年、あるいは20年という時を超えて、相手の精神に何らかの影響を及ぼすのだとしたら、無責任なことは言えません。自分にとって都合のいい言葉が、相手にとって都合のいい言葉とは限りません。
 

障害者というフィルター越しでの評価は、障害者を中心とした社会でしか通用しないことが多いものです。障害者以外の様々な属性や背景を抱え、育ってきたひとたちにも、それぞれの社会でしか通用しない評価基準があるのかもしれません。社会は様々なひとたちで構成されているもの。周囲からの声や評価、そして自分たちの界隈だけで通じる評価基準を、話半分程度に受け流しながら生きるほうが、この社会では暮らしやすいのではないでしょうか。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。