仲間づくりという名の排他主義。「仲間教」はなぜ気持ち悪いのか。

「友達なんかいなくても死なない。」私の人間関係における基本的な考え方です。
 

いつからこの考えに至ったのか、正確なことは覚えていませんが、おそらく小学校を卒業する頃には、自分の中にあった考え方だと思います。小学校時代は休み時間に一緒に遊ぶ友達がいないにも関わらず、校庭で遊ばなくてはならないという先生によって、私のこの考え方は芽生えたのかもしれません。
 


 

私は「友達なんかいなくても死なない」と思っていますが、一方で「友達や仲間の大切さ」を必死に説く方もいます。私は「仲間教」と呼んでいます。
 

「仲間教」に対する私の考え方についての詳細は、以前書いた『「自分のためには頑張れないけど、仲間のためなら頑張れます」という人が嫌いな3つの理由』をご覧ください。
 

簡単にご紹介すると、以下の3つが嫌いな理由です。

①簡単に仲間をつくるひとは、簡単に仲間を切り捨てる
②仲間を大切にする人格者ブランディング
③大切なのは仲間ではなく「仲間を大切にしている自分」
 

仲間教が気持ちいい人は、それで構わないと思います。けれども、仲間教に対して私が抱く「気持ち悪い」感情はどうしようもありません。敢えて今回は、なぜ「仲間教」が気持ち悪いのか、私なりに考えてみました。
 


 

直近で仲間教が気持ち悪いと思ったのは、約半年間に渡って行われた、あるプログラムの最終日に、半年間を振り返り、感想を述べていく場面。半年間の感想は人によって異なって当たり前ですし、良い感情を抱いている人もいれば、悪い感情を抱いている人もいて当然です。また、参加者は全員が企業・NPOなどの団体の代表や役員のため事業フェーズの違いによる悩みもあったことでしょう。
 

感想の口火を切った方は、プログラムに非常に満足されていたようでした。次の方も、その次の方も。そのうち誰かが言いました。「このプログラムで得たものは最高の仲間です」。周囲の方々も「そうだね」「ずっと一緒にいたいね」「そうだ、今度自主企画で合宿をやろう」と呼応します。
 

「気持ち悪い」
 

普段から言いたいことは空気を読まずに発言することが多いと言われる私ですが、なぜかこのときは一言も発しませんでした。発言を求められることもありませんでした。仲間教のみなさんが私の様子を察して敢えて発言を促さなかったのか、意図的に私を排除したのかはわかりません。
 

ただ、もし、あのとき話し始めていたら、とても公共の場では口にできない言葉で罵っていたでしょうから、発言しなくて良かったと思っています。
 

仲間意識や一体感などは、所属するメンバーの帰属意識を高め、目標達成においては良い効果をもたらします。一方で、メンバー以外からは疎外感が強まります。所属上はメンバーであっても、帰属意識が高くない、目標を共有できていない人も同様です。仲間づくりとは、仲間以外を排除する行為です。
 

仲間教のみなさんの信仰の自由を妨害するつもりはありません。ただ、仲間教のみなさんに知っていただきたいのは、仲間づくりとは、仲間をつくったその瞬間から外部に向けて壁をつくる排他主義でもあるということです。
 


 

排他主義というと、ネガティブなイメージがあるかもしれませんが、悪いこととは限りません。組織の秩序を保つため、時には組織内のメンバーの命を守るために仲間意識を高め、外部に向けた壁を厚く高くすることが必要になる場面はあるでしょう。未開の地の原住民と接触すると武器を向けられるのと同じだと思います。自分たちのコミュニティを守るために、外部を排除するのです。仲間づくりによる排他主義へ現代に限ったものではなく、人間が本能的に行う自己防衛の手段なのだと思います。
 

「仲間をつくって何が悪いのか?。結果的に排他的になったとして何が悪いのか?」と思う方もいるかもしれませんが、何も悪くないと思います。
 

仲間づくりは悪くないのです。排他主義も悪くないのです。だからこそ、仲間教のみなさまには「仲間づくりとは、同時に排他することである」と改めて認識していただきたいのです。仲間教が気持ち悪いと感じる人間もいることを知っていただきたいのです。
 

本当に仲間を大切にする仲間教のみなさんなら、きっとそれくらいできますよね。
 

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