「障害者」という言葉を用いる難しさ。分かりやすい障害と分かりにくい障害がこの社会には存在している。

先日、Plus-handicapでライターの堀さんがアップした記事「生きづらさを生み出しているのは障害者自身かもしれない【ユニバーサルマナー検定受講レポート】」に対して、いくつかの意見を頂きました。非常に本質的だなと感じたので、共有しつつ、議題として考えてみたいなと思います。
 

コメント①−1
この記者の記事は「障害者」ではなく、「身体障害者」としてほしいです。知的、精神障害とは、課題がかなりズレるので、いつも違和感を感じます。
コメント①−2
知的や精神は身体とはまた違ったアプローチが必要ですからね。

 

「障害者」という言葉を用いて、議論を展開したり、意見を発信したりする場合、それが障害者全体に対してのものなのかどうか前提を共有することが大切です。障害者は身体・知的・精神と大別されるので、例えば知的障害者に対して議論する場合は、「障害者」ではなく「知的障害者」としなくては有意義なものになり得ません。
 

世の中には「障害者◯◯」というものがあります。障害者雇用、障害者スポーツ、障害者差別など様々ありますが、そのどれもが障害者全体を表しているのか、一部の障害者を対象にしているのか分かりにくいです。「我が社は障害者雇用を進めております」と言っておきながら、内実は身体障害者、それも車いすユーザーだけを採用していたとしたら、「我が社は車いすユーザーの雇用を進めております」と言わなくては、厳密にはウソになってしまいます。知的障害者がその企業に求職しても、障害の種類が理由でおそらく不採用になるはずです。
 

記事を書くにあたり、どの言葉を選択するのか。私たちライター陣もひとつひとつの言葉選びにより一層気をつけていこうと考えておりますし、その上で「障害者」という広い括りで展開されている記事であれば、それは障害者全体にまつわることだと考えて頂きたいなと思います。
 

「障害者」という言葉の範囲がどこまで及ぶのかという問題はPlus-handicapが扱うテーマとしては「若者」や「外国人」も同じような問題点をはらんでいるように思います。「最近の若者は〜」というときの若者の対象は?年齢は?属性は?というのも似ているような気がします。言葉の使い方って難しいなと改めて感じます。
 

コメント②
精神障害や発達障害の当事者は、自分がどうして困っているのか、それがわかりません。わかったとしても、どう伝えればいいのかわからないのです。目に見えない障害ならではの高い高いハードルです。伝える内容も伝え方もわからない、そのため他者との関わりを避けてしまいます。

 

世の中にいる生きづらさ属性のひとや社会的弱者と位置づけられるひと、マイノリティなひとの中には、自分で自分の意見を発信できるひとが実は多いです。機会の有無ではなく、本質的に可能かどうか、という観点です。反対に、自分の意見を発信できる知性、冷静に意見を組み立てられる精神状況がなければ、例えば自分が何に困っているのか、どこを改善してほしいのか、何ができて何ができないのかということは伝えられません。知的障害者、精神障害者の多くはこの状況に含まれるでしょう。もちろん身内や後見人など代弁者となり得る方はいますが、本人でなければ100%本人の意思を汲み取ることはできないので、自分の意見を発信することは難しくなってしまいます。
 

障害には「分かりやすい障害」と「分かりにくい障害」があります。私のように義足を履いている場合は「分かりやすい障害」に該当します。手話を使っている、白杖を使っている、車いすに乗っているというのも同様です。身体障害でいえば、内蔵系の障害、例えば心臓にペースメーカーを入れている、人工透析を受けているといったものは「分かりにくい障害」です。知的障害や精神障害の場合は、その行動や言動から障害者かどうかを判断することが多いので、「分かりにくい障害」になります。物的証拠か状況証拠かの差と言えるかもしれません。
 

「分かりやすい障害」は社会から見て「この人は障害者だ」と認識されやすいので、周囲からの配慮が比較的受けやすい立場にあります。障害者の世界ではまだまだ合理的配慮が為されていないという論調は強いですが、以前と比べれば為される機会は増えてきています。「分かりにくい障害」は障害者だと認識されにくく、その分配慮も受けにくい。知的障害・精神障害といった自分の意見を発信しづらい環境も上乗せされれば、八方塞がりの状況です。これは障害者間の格差問題です。
 

障害者は障害があるが故に生きづらいことは前提だと思いますが、「分かりやすい障害」をもつ障害者が、障害者が何に困っていて、なぜ困っているのかを発信したり、社会側が抱える障害者とのコミュニケーションでの不安や悩みを拾い上げたりといった、社会との接点をうまく構築していくことで「分かりにくい障害」をもつ障害者の社会進出への道を広げていくことが大切です。ある意味、他者とコミュニケーションが比較的取りやすく、また障害者と分かりやすく認識できる身体障害者に責任の一端があると私は考えます(身体障害者の中にも分かりやすい・分かりにくいの違いはあります)。
 

今回、自身の障害状況の開示とともにコメントを頂いたことで、私自身に考える機会を与えて頂けたことにとても感謝しております。ありがとうございました。
 

すべてのコメントに対して、という訳にはいきませんが、今後も、Plus-handicapに頂いたコメントへの回答、コメントから展開した意見、持論などを記事として皆さまにお伝えできればいいなと考えております。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。