「障害者を理解しよう」ではなく「困っているひとに声をかけよう」くらいがちょうどいい。

生まれてからの31年間、両足が不自由な私は障害者としてベテランの域にさしかかってきた。
 

「僕、足が不自由なんですよ」
「じゃあ歩くの大変でしょう」
「生まれながらにこの足なんで今さら歩くのがしんどいとは思わないですね」
 

そう切り返すと、キョトンとされる。「足が不自由なら歩くのは大変」というのはひとつの思い込みであって、ひとつの偏見である。もちろん、足が不自由だから歩くことが大変なひとはたくさんいる。車いすユーザーだと「歩く」ではなく「移動する」という言葉に変換されるかもしれない。でも、私個人はそう思っていない。正確には、もう思っていない。おそらく、足が不自由というマイノリティの中のマイノリティなのだろう。
 

昨日、たまたま自分自身のことを30名ほどの前でプレゼンする機会があった。「足が不自由な僕が困ることはセックスとファッションですね」と話すと、ほぼ全員の頭に?マークが灯っていた。分からない「え?」というより、困惑気味の「は?」のような。
 

人間の思い込みというのは、本人と他者の間にはズレがあるのにズレがないと信じ切っていて、そのうえで自分のほうが正しいと思っているから厄介である。白昼堂々「セックス」と言ったことに対する「空気を読め」的な苛立ちがあったのかもしれないが。
 

20160831②
 

31年も障害者生活を送っていれば、
 

「今まで大変だったでしょう?」
「どうやって障害を乗り越えてきたんですか?」
「家族や友人との感動的なエピソードとかありますか?」
 

というような質問を受けたことは一度や二度ではない。今、個人的に大変だと感じるのは「障害は乗り越えるもの、感動エピソードをもっているはずという前提で話しかけてくるあなたとコミュニケーションをとらなくてはいけないこと」だ。
 

障害は乗り越えるものではなく、気づいたらそこにあったものであり、受け容れざるを得なかったものである。自分で用意したわけでもない。自分で用意したならば、感動的な何かを仕込んだかもしれない。ただ、残念ながら、私にはない。
 

もちろん、障害は乗り越えるものと考えているひともいると思うし、乗り越えたひともいるだろう。それは、言葉のチョイスや考え方、解釈が違うだけなのかもしれない。捉え方ひとつに本人の価値観が表れる。
 

感動的なエピソードをたくさん持っているひとは単純にうらやましい。その点、私の周りが「障害」を特別扱いしない環境だったことに、とても感謝している。
 

愛は地球を救うのか。
愛は地球を救うのか。

 

「障害者の理解啓発」的なニュアンスがとても嫌い。「障害者のことを理解しよう」みたいなメッセージを見て、そこに私も含まれるのかと思うと、気持ちが沈む。「理解しよう」という言葉にある、社会から手を差し伸べられるべき存在かのような対象の中に含まれると思うと、吐き気がする。たぶん言わないだけで、同じように思っている障害者はそこそこいるんじゃなかろうか。
 

障害者と一括りにするのは簡単だが、同じ障害の種類のひとはいても、障害を負った背景や生活状況、困りごとまで同じというひとは稀。みんな違う。自分のことを理解してほしいと発信するひともいれば、そこに不満がないひともいる。価値観もバラバラ。それらを一括りにしたメッセージは「みんなちがって、みんないい」というような風潮が好きな割に、画一的だなと感じてしまう。
 

また「障害者のことを理解しよう」というメッセージは、障害者である私自身の障害者理解に対しても言及している。例えば、統合失調症、アスペルガー、エイズのような、私にはない障害に対しての理解に、だ。障害者自身は自分の障害についてよく知っていたとしても、他の障害なんて知らないし、基本的には興味がない。そこは健常者と同じ水準である。今のような仕事をしていなければ、そんなことに時間を割くなんてもったいないと感じていてもおかしくはない。
 

「障害者のことを理解しよう」という言葉は、私にとって気持ちが沈むもので、手間がかかりそうなもの。好きではない。そもそも障害があろうとなかろうと他者を理解しよう、理解しますなんて、どこか上から目線的で、おこがましく、また難しい。
 

20160831①
 

障害者だけがしんどいわけでもなければ、生きづらいわけでもない。障害者だけが理解されればいいわけでもない。
 

例えば、LGBTのようなセクシャルマイノリティの方を障害者は偏見なく受け容れ、理解することができるのだろうか。障害者ではない社会的弱者とカテゴライズされるひとの理解もまた進められるのだろうか。
 

「障害者を理解しよう」ではなく「周りに困っているひとがいたら声をかけよう、手を差し伸べよう」くらいがちょうどいい。小学校で習うような。言う側も言われる側も、そりゃそうだよねと納得度は高い。
 

障害者の中にも、困っているひともいれば、困っていないひともいる。全員が同じ状況ではないのにも関わらず「障害者」という言葉を使って解決しようとするから、敷居が高くなるし、メッセージの受け取り手は何をすればいいか分からなくなる。これは「障害者」に限らず、難病患者やLGBTなど他のカテゴリにも言える。
 

社会に対して理解啓発を求める動きは必要である。「知らない」は時に凶器になり、傷にもなるからだ。ただ、そのエネルギーを周囲で困っているひとへの何気ない配慮やサポートにつなげたほうが、ずっといい。少なくとも私はそう思う。
 

生きづらさを抱え、理解してほしいと願っているひとが、他者への配慮まで気が回るのか。それは難しい話だが、例えば、生きづらくて配慮まで気が回らなかった結果と、知らなくて配慮していない結果は、配慮の受け手からすれば「行動していない」という結果に変わりはない。できる/できない問わず、やってみればいいだけの話だ。
 

困っているときはお互い様で、持ちつ持たれつ、譲り合いがある社会。これは理解啓発という言葉が目指す先と実は同じなのではないだろうか。
 

今の縦割りのような◯◯理解という動きは、自分のカテゴリにとって理想的な社会になっても、結果的に他のカテゴリを排他してしまっている。それはもったいない。少なくとも、他のカテゴリと連携したほうがいい。ひとは皆、多様であり、それぞれがそれぞれに何かを抱えているという前提を疎かにしては、生きづらさなんてなくならない。
 

記事をシェア

この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。