「障害」を理由にしない、言い訳にしない

 

足が不自由なひとが富士山に登る。

目が不自由なひとが遠泳をする。

これは大きな感動を呼びます。

 

では足が健全に動くひとが富士山を登れば感動を呼ぶのでしょうか。

同じように視力が2.0のひとが遠泳をすれば感動を呼ぶのでしょうか。

 

すごく不思議な話だなと思います。

足が不自由である、目が不自由である。

「不自由さ」というフィルターを通せば、感動ストーリーになる。

 

たしかに富士登山や遠泳は、常人でもなかなか難しいものです。

「不自由さ」をもつひとがトライするのであれば

かなりの過酷さ、チャレンジ精神が必要とされます。

 

課されたハードルの高さ。

このハードルを超えるストーリーを見て、なぞることで、

感動だけでなく、勇気や希望をもらえ、明日への活力が湧くのでしょう。

 

しかし、やっぱり変だと思うんです。

他人が判断した「相手の不自由さ」で感動を呼ぶことには疑問を感じます。

 

「あんなに大変な思いをしてがんばっている人がいるのだから私もがんばる」

ここにはある種の上下関係、優劣関係が実在しています。

 

足が不自由、目が不自由。これは障害者というカテゴリーに属されます。

この原稿を書いている私も両足が不自由ですし、右手中指がありません。

 

佐々木一成のリアルな右足
佐々木一成のリアルな右足

 

佐々木一成のリアルな左足
佐々木一成のリアルな左足

 

障害者は大変だ。かわいそう。

このようなステレオタイプ、思い込みがはびこっていることで

障害者が「与えられる存在」であることから抜け出せないのではないでしょうか。

 

不自由さを抱えているからこそ、障害者はがんばっている。

そんなこと、当たり前です。がんばらなきゃ生きていけないのです。

 

障害があろうとなかろうと、がんばっているひとはがんばっている。

がんばっていないひとはがんばっていない。これが本質です。

 

勝手な第3者目線で「障害者は不自由さ故にがんばっている」という

認識を植え付けられるのはこちらが迷惑です。

私は自分の仕事に対してがんばっているのであって、障害うんぬんは関係ない。

 

世の中が創り出す「生きづらさ」を私は外していきたい。

世の中の当たり前を問い直す情報を発信していきたい。

 

とりあえず「障害」を理由に家事から逃れている私なんて言語道断なんですが。

 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。