先日、とある番組でパラアスリートの方がこんな話をしていた。
「僕らは障害を負って一度マイナスになっている。そこを乗り越え、プラスになったパフォーマンスをパラリンピックで見てほしい。」
「障害を乗り越える」的な文脈だと、そういう表現をせざるを得ないのだけど、生まれつき障害がある側からすると「へえ、僕らは生まれつきマイナスなんですか。へぇ〜、ふぅ〜ん。」と揚げ足をとってしまう。僕の性根は腐ってる。
事故や病気によって障害を負ったひとなんかに、生まれつき障害があるひとのことなんてわかるはずなんてない。ただ、これは逆もしかりで、生まれつき障害があるひとに、事故や病気で障害を負ったひとのことなんて、わかるわけはない。
そもそもは、他人をわかるだとか、理解するだとかがおこがましい話。ちがいがあって当たり前。ちがいがあることをわかる程度がいいところ。
こんな”器のちっちゃい言葉狩り”の応酬が繰り広げられているのに、いまだに陽気な僕らは簡単に「障害者の〇〇(〇〇には社会でも自立でも好きな言葉を入れてください)」なんて言葉を使って、一括りにしようとしてしまう。
障害の種類で言えば、身体も知的も精神も発達もひっくるめて。
キリスト教?仏教?イスラム教?神を信じるってことで宗教なんて似たり寄ったりでしょ?と言っているようなもの。それくらい、それぞれの障害はまったくの別物。生まれつきなのか生まれた後なのか、だって考慮していない。
また、こんな陽気な僕らがすぐに使ってしまうのが「多様性の理解」だとか「インクルージョン」だとか、簡単に消費されてしまう言葉たち。本当は取り扱いに気をつけたほうがいいのに、実に使い勝手がいい。
(勝手に)ひっくるめたり(勝手に)ひとまとめにしたりした上で「みんなちがって、みんないい」的なニュアンスのことを言って拍手喝采を浴びるのは、どこか違う。それは都合のいい多様性。
そう使っちゃうひともいるよねと、さらっと寛容に受け入れられる度量が、皮肉にもそういう概念の側面なのかもしれないけれど。
「障害があっても」「障害者だって」そんな枕詞で社会に訴える場合も、それはすべての障害者を”半ば強引に当事者にしている”だけ。もちろん、中には障害者全体の課題があるのかもしれないけれど、多くは自分の課題を社会の課題に昇華している。
それは、あなたの問題であって、社会全体の問題かどうかは別の話。
それは、あなたを中心とした社会であって、あなたを中心とした社会=みんなにとっての社会かどうかは別の話。
陽気な僕らがふと我に帰るための自問自答。自分で問えないなら、皮肉な誰かが問う役割を担わなければならない。
誰にでも簡単に発信できる社会の中では、陽気な僕らはとても生きやすい。エモいという概念の広がりとともに、その発信はとても耳触りがよく、「いいね」を集めやすく、フォロワーを集めやすい。
皮肉な誰かは、せっかくのいい流れを引き止める防波堤のようなもの。カウンター、敵役でしかない。その発信はとても受け入れ難く、「いいね」は押されず、アンチは増える一方だ。
政治の世界に与党と野党があるように(機能しているかは別)意見に対立軸があることで社会は一歩進んでいく。陽気な僕らと皮肉な誰かがいることで、当事者発信の世界は何歩でも前に行けるのだろう。それは素敵なこと。相乗効果とも言えるだろう。
ただ、陽気な僕らだって、全体から見たらマイノリティであることを忘れてはいけない。陽気な僕らは多くのひとにとっての社会との接続を考えることが、これからの命題。そして、皮肉な誰かはその社会の代弁者になることが、責任と役割になるのかもしれない。