障害のない社会になったときの、障害者のアイデンティティ。

義足を履いて30年以上生活していると、長い時間歩くことや走ること、ずっと立ち続けることくらいしか、困りごとが発生しません。車やタクシーに乗ればいいじゃん、立ちっぱなしの仕事や状況を避ければいいじゃんと考えると、幸か不幸か、障害者的な困りごとがだんだんとなくなっていきます。
 

奇形な足という見た目を考えると、外見上の問題も抱えていますが、義足を脱いだとき、裸になったときくらいしか、その問題は浮き彫りにはなりません。困ったという経験はこれまで少なく、今ではほとんど気にしなくなりました。
 

最近、腰が痛いと感じることが増えてきましたが、それも障害が原因か、加齢が原因かと言われれば、どちらか片方に寄せることはできません。年を取れば、体のメンテナンスは大事だよねと言われれば、たしかに!と納得してしまうし、そこに障害の有無は関係ないような気がしてきます。
 

障害があるのに、障害者的な困りごとがないというのは、それはそれで不思議なポジションです。健常者同様の足の運びはできないけれど、そこに配慮を求めるのはちょっと違和感があるし、いろいろな困りごとを抱える他の障害者を見ると、同じ障害者というカテゴリに括られていていいのかと疑問を抱きます。
 

健常者と障害者の間を漂いながら、その都度いいとこ取りをしているというのが、嘘偽りない今のポジションかもしれません。
 


 

社会生活を送る中で困りごとがほとんどなく、さらには、それらの困りごとさえ解消できれば健常者と変わらないといっても過言ではない状態は、同じ障害者の中でも幸運なポジションでしょう。身体、知的、精神、発達、様々な障害の種類や程度がある中で、僕の障害はきっと恵まれています。
 

もっと言えば、生まれつきの身体障害者というポジションは、福祉の枠組みの中でも弾かれることが少ないもので、手続きが難航したのは生命保険に加入したときくらいだから、民間の話。障害年金、福祉助成など、障害の種類や負った経緯によって障害者の中でも該当する/しないと分かれるケースがある中で、僕の障害はきっと恵まれています。
 

パラアスリートとして日の丸を背負う経験をしていたり、WEBメディアを運営し、多くのひとに自分の言葉を届ける活動をしていたり。いろいろなチャンスが巡り来ていることを考えてみても、僕は、恵まれているのだと思います。
 

障害者というカテゴリにいるひとから見れば、僕の状態や環境はうらやましいというより、ねたましいというほうが近いかもしれません。それこそ、何が、生きづらさだ!と。
 

もし僕が事故で下半身に麻痺が残り、車いすに乗っていたとしたら、ここまでの言葉を眺めると、イライラ感が募りそうですし、もし僕が発達障害が判明したばかりで上手くいかないことが多く、またその受容も上手くいっていなかったとしたら、軽蔑の目を向けそうです。
 

ただ、障害者的な困りごとを抱えることのない障害者は、例えば、仕事ができるかできないか、周囲との人間関係が良好か否か、モテるかモテないか、といったテーマにおいて、障害は理由にはならず、ともすれば言い訳にしかなりません。
 

「障害は言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ」という言葉が躍ったポスターの問題がありましたが、僕のケースは言い訳になることがほとんど。障害が言い訳にしかならない社会で生きざるを得ないと、この言葉に反論することはできません。そうです、僕が弱いだけですとしか言いようがありません。
 

仕事ができない・使えないヤツ、ボッチなヤツ、モテないヤツ。そんなレッテルを貼られたとしても、どうしようもありません。仕事ができない自分が悪い、周囲に溶け込めない自分が悪い、モテない自分が悪い。自己責任とは使い勝手のいい言葉で、すべてが自己責任になってしまうのです。障害を隠れ蓑にすることはできません。
 


 

◯◯障害だからマルチタスクが苦手です。仕事に優先順位をつけて、業務指示を出してください。
 

精神的に不安定なところがあるので、月に1回の面談を希望します。あと、大きな声で指摘したり、注意したりするのはやめてください。
 

障害者だって恋愛したい!セックスしたい!
 

そんな言葉を見たり聞いたりすると、困りごとの少ない障害者と困りごとを多く抱える障害者との間に、障害者だからと一括りにはできない、障害者内での差があることに気づかされます。この差はなかなか言いづらいものです。
 

ただ、困りごとが少ないからといって、恵まれている、楽であると一概には言えない現実にも気づかされます。障害があるのに、障害を理由にできないという状態は、個人的には「ただババを引いただけ」みたいなものです。
 

もし、仮に、この社会の隅々まで障害に対する配慮が行き届き、障害者に対する偏見もなくなるという理想的な社会になったとしたら、いわば障害のない社会になったとしたら、それが障害者にとっていい社会なのかどうか、僕にはよく分かりません。
 

今まで障害があったからこそ認められていたこと、赦されていたことが、良くも悪くも、なくなってしまう。公平な社会というのは、時に残酷さが顔を出すことだってあります。
 

0か100かのような、極端な意見は言いたくありませんが、障害を理由にできない社会は、自己責任に委ねられてしまう社会になるのではないか。そんな漠然とした不安がよぎります。そう感じるのは、ある意味、障害のない社会を障害者が生きる場合のテストケースを歩まざるをえないからかもしれません。
 

「◯◯障害を抱えている◇◇です」の◯◯がなくなったとしたら、僕らは何者になるのでしょうか。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。