生まれたくなかったという思いは変えられない。けど、生きてちゃダメなわけじゃない。

生まれたくなかった。
 

死にたい、と思うことも多々あったけれど、それよりも、そもそも生まれたくなかった。これが、私個人として抱える「生きづらさ」の根っこにぐったりと横たわっているように感じます。
 

全然かわいくない容姿は幼少期からコンプレックスで、超ネガティブな性格にも辟易するし、かといって改善の努力が足りているかというと、多分そうでもなくて。おまけに、双極性障害II型という精神疾患まであります。この自分として存在していることがしんどい。いろいろ考えているとお先真っ暗な気がして、自己否定の連鎖にはまります。
 


 

こんな私でも、どうにかこの連鎖から脱した方が良いだろうと思って試行錯誤したこともありました。試しに、その一例を紹介します(大変陳腐な例ですが、そのときの私は必死だったので良しとして下さい)。
 

いつだったか読んだ本に、悩んでいるときに「なぜダメなのか?」を考えるより「では、どうしたらいいのか?」という答えのある問いについて考えよう、と書いてありました。なるほど確かに。解を導けるのならその方が良い。
 

「どうしたら、生まれたくなかった、と思わなくなるか?」を考えてみました。
 

解1)生まれて良かったと思えることを考える
解2)生きてて楽しいと思えることをする
解3)自分にないものよりあるものを考える
 

どれも解っぽいですね。ありきたり感は否めませんが、こんなところかなと思います。
 

・・・でも、やっぱり「なぜダメなのか?」の類の、解のない問いを頭から完全に消すのは難しいと思ってしまいます。それはなぜなのか考えてみると、その問いこそが私のアイデンティティだからではないかと思うようになりました。
 

私の場合、生まれたくなかったと思っている自分はダメなんじゃないかと思ったり、悩みすぎる自分のことも好きじゃないけど、そういう側面を完全に無視して自分を語ることは、それはそれで難しいです。自己否定の連鎖を抜けるためには、例に示した3つの解に取り組むことはもちろん重要でしょうが、それはつまり、モチベーションの根っこに「生まれたくなかったから」という思いがあり続けるとも捉えられます。
 


 

一方で、一連の思考の中で、もう1つ、自分の中で気づきがありました。
 

「生まれたくなかった」≠「生きてちゃダメ」ということです。
 

私はいつの間にか、「生まれたくなかった自分」を「生きているべきでない自分」という解釈とすり替えていました。多分、そこに一番悩んでたんです。生まれたくなかった理由はたくさんあるし、それらは事実として変わらないけど、それらは生きていてはダメな理由にはならないのです。ブスでも、ネガティブでも、精神疾患があっても、それが私にとって死ぬほどの理由になるなら多分もう生きていません。今までなんだかんだ生きているのがその証拠かもしれません。
 

生まれたくなかったという思いは変えられない。けど、生きてちゃダメなわけじゃない。
 

様々な理由で、なんで自分だけが、とか、もう死にたい、とか、そもそも生まれたくなかった、と思うことも人によってはあると思います。それは良い悪いの事象ではなくて、そういう事実でしかありません。何を思っても自由です。ただ、その事実を他の解釈とすり替えてしまうと、途端に生きづらくなってしまうんじゃないかというのが私の学びです。
 

しんどい思いはたくさんするけれど、生まれたという事実も変わりません。「生まれた者」として、その先がひらけようともそうでなくとも、そんなこと誰にもわからないし、そもそもひらけることがわかっているなんて、そんな楽な話はない気もします。そういう意味では「完全無欠の生きやすさ」なんてなくて、生まれた者は多かれ少なかれ生きづらさを背負って生きていくものなのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

杦本 友里(すぎもとゆり)

1988年茨城県生まれ。双極性障害2型当事者。障害の受容はまだ途上。躁の波も鬱の波もまだうまく乗りこなせないけど、こんな自分だからこそ生きられる道を模索中。とはいえ、自分探しをして果たして何年経ったことか。でも、病気になってから将来のことを考えるのがますます難しく感じている今日この頃。日々の小さな発見を大事にしながら、執筆やイベントを通じて、少しずつでも「違う視点」との橋渡しができれば。