両親の離婚がきっかけで生まれた苗字コンプレックス

高校1年生のときに両親が離婚をしたことで「父と母、どちらの苗字を名乗るのか?」という問題に直面しました。
 

「離婚は両親の問題なのに、どうして子どもも苗字を変えなくちゃいけないの?」と不満。まるで「父の家族でいたいのか、母の家族でいたいのかを選べ」と言われているような感覚になったのです。
 

「もう、いっそのこと苗字なんか無くしてしまいたい」と思っていました。そこからずっと苗字と家族について考えてきました。
 

苗字コンプレックス
 

両親が離婚したとき、私と弟は母と暮らすことを選びました。母は離婚と同時に旧姓に戻し、私たちに対しては「苗字を変えてもいいし、変えなくてもいい。自分で決めなさい。」と言いました。
 

私にとって、高校一年生のときに苗字を変えるのは「ありえない」選択でした。なぜなら、苗字を変えるのは「両親が離婚しました」と公開カミングアウトするようなものだからです。
 

両親の離婚は父親の不倫がきっかけで、学校という閉鎖空間でそんなゴシップネタが流通したら、私はとても生きていける気がしませんでした。ただでさえ、私は浮いていた上に、からかわれることに弱いのです。
 

それに加えて、申し訳ないけれど、私にとっては母方の苗字もネックでした。母方の苗字は「十一(じゅういち)」です。全国に90人しかいない苗字で、嫌でも注目を集めてしまいます。珍しい苗字は「離婚したことを隠したい」私にとって不都合でした。
 

「小さいころ、プラス・マイナスってからかわれた」という母のエピソードを聞いて「それ、私も周りにいる側だったらからかっちゃうわ!」と思うと同時に「やっぱり十一にはなりたくない…」と思いました(全国の十一さん、ごめんなさい)。
 

また、何より、私にとって大きかったのは、アイデンティティの問題です。生まれてから何千回、何万回と呼ばれてきた名前。自分の一部というより、自分そのものだと感じていました。それを、親の離婚が原因で変えるのはどうもしっくり来なかったのです。
 

ただ、一度決めたのにも関わらず、その後もモヤモヤを長く引きずりました。父方の苗字で呼ばれるたびに違和感がありました。「いやいや、それは離婚した父親の苗字だから、本当はちがうんだけど…」といちいち心の中でツッコミを入れるほど。往生際が悪い。
 

結局、呼ばれ方の問題ではなかったのでしょう。他の誰にも知られなくても、私自身が両親の離婚を強く意識をしている以上、自分の苗字コンプレックスはずっとそこにありました。
 

「いっそのこと、苗字なんか無くなればいいのに」と思っていました。
 

両親のうちのどちらかを選べば、もう一方を傷つけるような気がして申し訳なかったということも本音です。消極的な「保留」に近い選択でした。
 

何も選ばないことはできないので、私は母と暮らしながら父の苗字を名乗るという、ねじれを抱えたまま生きてきました。それは、生活のめんどうを母に見てもらいながら、父に教育費を出してもらうという、当時の生活そのものを表していた気もします。
 

苗字コンプレックス
 

離婚から15年近くたった今も、私は父の苗字を名乗っています。ただ、父の苗字だということはあまり意識しなくなってきました。
 

生活費を自分で稼げていることと、家事を自分でできていること。過去はともかく、今だけを見れば、親に世話をしてもらわなくても生きていられることが大きいです。
 

もちろん、親のおかげで大学にも行けましたし、離婚してから手伝う割合は増えたとはいえ、家事のほとんどは母がしてくれていました。とても、ありがたいことです。
 

しかし、私は両親の離婚を機に「自分がお荷物である」ことを強く意識しました。
 

自分にかけてくれたお金、手間、時間。どれに一番感謝しているのかを、苗字を選ぶことで意思表示しているような気分になっていました。このときに感じていた後ろめたさ、情けなさ、自分の無力感は今でもクッキリと思い出せます。
 

当時の私は、アルバイトをして家計に入れたり、国公立の大学を目指したり、大学を諦めて就職したりということを、そんなことできるわけがない、その責任は私にはないと考えていました。その反面、親に真っ直ぐに感謝することもできないような中途半端な子どもでした。
 

私の苗字コンプレックスは「誰の家族か」で自分が判断されるような気がしたからです。「自分がどんな人か」に自信さえ持てれば、そんなことをいちいち、気にしなくてよかった。今は、どんな呼び方をされようと、自信がゆらぐことなんてないと思えるのです。
 

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この記事を書いた人

森本 しおり

1988年生まれ。「何事も一生懸命」なADHD当事者ライター。
幼い頃から周りになかなか溶け込めず、違和感を持ち続ける。何とか大学までは卒業できたものの、就職後1年でパニック障害を発症し、退職。障害福祉の仕事をしていた27歳のときに「大人の発達障害」当事者であることが判明。以降、少しずつ自分とうまく付き合うコツをつかんでいる。
自身の経験から「道に迷う人に、選択肢を提示するような記事を書きたい」とライター業務を始める。