自分を丸ごと、受け入れられますか?絶好調と絶不調の波でサーフィンしながら考えてみた私の場合

「ありのままの自分」という言葉をよく耳にしますが、聞くたびに「それってどんな自分だろう?」と思っていました。一人のとき、他の誰かといるとき、家にいるとき、外にいるとき。いろいろな場面でいろいろな自分がいるような気がして、果たしてどれが「ありのままの自分」なのか分かりません。
 

私が最も困っているのは、病気の症状としての「絶好調の自分」と「絶不調の自分」が存在することです。この対極的な自分も「ありのまま」なのか、果たしてどうなんでしょうか。
 


 

この病気のはじまりは大学に入ってすぐの頃。当時、授業は毎日詰め込めるだけ詰め込み、サークルを掛け持ちし、アルバイトもして、朝から晩までフル回転の毎日でした。そのときは自分が病気だとはまったく思っておらず、むしろ「今が自分の頑張りどきだ!」と燃えていたくらいです。
 

その後しばらくして、全然眠れなくなり、死にたい気持ちが止まらず、大学にも行けないという状況が続くようになり、精神科を受診することを決意します。そこで出た診断は、予想通りというか、うつ病でした。そのときは、私もお医者さんも燃え尽き症候群の延長のようなものだと思っていました。
 

このうつの症状はしばらくすると軽くなって「良くなった」と思って、また活動的になります。でもしばらくしたらまた、うつになってしまう。そんな状態が続いて6年後、私の診断は「双極性障害2型」になりました。
 

私の症状からも見て取れるように「双極性障害」は躁状態とうつ状態を繰り返す病気です。特に2型の場合は軽躁状態といって、一見すると「最近調子良さそう、いろいろやってるな」くらいの状態と、明らかなうつ状態を繰り返します。そのため、うつ病や他の気分障害として診断されてしまうことも多いようです。
 

躁でもうつでもない時間を長くしていくことが、この病気の基本的な対処法。躁の波が高ければ高いほど、反動でうつの落ち込みも深くなってしまうので、そうならないように躁が高まりそうだったら行動を抑えて、結果的にうつを予防します。この調整は今の私にはまだまだ難しいところがあります。
 

躁とうつを繰り返してきて10年。その間、いろいろなことに取り組んできたつもりですが、それらは全部躁のせいだったのかもしれないと思うと、「普通の自分」、もっと言うと、「本当の自分」はどこにいるんだろう、そんな気持ちになります。
 

自分の実力と思っていたものは実は病気(躁状態)のせいで、うつになった時にはその自分とは程遠いところに落ちてしまって、さらに落ち込み、焦る。調子が回復してくると、その不安を動力源に、ここぞとばかりにまた走りまくる。その繰り返しです。今思うと「今度こそが本当の自分だ」と思い込むことでなんとかやってきたように思います。いつも裏切られるわけですが。
 

しかし、時間をかけて「本当の自分」については徐々に考えがまとまってきました。
 


 

考えてみると、どの時点でも自分に嘘をついたり、自分を偽っていたわけではありません。「躁でもうつでもない時間」が本当の自分なのではなく、躁と、うつと、どちらでもない時間、全部丸ごとで私なんじゃないか。
 

言ってしまうと至極当たり前な気がしてくるのですが、こう思った瞬間が、私自身の「丸ごとの自分」との出会いでした。
 

躁のせいだったかもしれないけど、これまで得た経験は大切だし、うつのときもしんどかったけれど、家族や友達の包容力やあたたかさが素直にありがたかったです。そう考えると、躁もうつも私から切り離すことはできません。この切り離せないものこそ、私を形成している重要なものだと思うようになりました。
 

振り返ると絶好調と絶不調の波でサーフィンしてるみたいな10年でした。波にのったりのまれたり。これからも大変なことはあるでしょう。丸ごとの自分と出会ったものの、まだまだ受け入れられないところはあります。でも、ようやく、こんな自分でも、これからの10年をどんな風に過ごそうか考えるのも悪くないなと思えるようになってきました。
 

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この記事を書いた人

杦本 友里(すぎもとゆり)

1988年茨城県生まれ。双極性障害2型当事者。障害の受容はまだ途上。躁の波も鬱の波もまだうまく乗りこなせないけど、こんな自分だからこそ生きられる道を模索中。とはいえ、自分探しをして果たして何年経ったことか。でも、病気になってから将来のことを考えるのがますます難しく感じている今日この頃。日々の小さな発見を大事にしながら、執筆やイベントを通じて、少しずつでも「違う視点」との橋渡しができれば。