心の傷は放っておいても治らない。

「森本さんって”自分の苦しみは特別”感が出ていて嫌なんだよね」
 

先日、ふと言われたことなのですが、自分でもかなり身に覚えがあるので、ギクッとしました。そうなんです。私には全然乗り越えられていない過去があるんです。急に触れられると思わずガチガチにガードを固めたくなったり、急に泣き出してしまいそうになったり。我ながらメンドクサイ奴ですみません…。
 

基本的に、心の傷が癒えていないひとって「触れないでオーラ」を醸し出しています。それが「自分の苦しみは特別」という見え方につながります。周りから見て鼻につくのは「世の中にたくさんあるできごとのうちの一つにしか過ぎないのに、なんでそんなに世界で一番私が不幸みたいな顔をしているの?」ってことになるんだと思います。
 

それは、まさに仰る通りで、自分の悩みなんて小さく感じるくらいの壮絶な過去をもった方はいますし、現在も大変な状況にいながら、周りに気を遣わせない努力をしている方もいます。辛い状況であっても、周りに気を遣える方だっています。それに比べて、周りに気を遣わせてしまっている私は、もう、恥じ入るしかありません。
 

 

しかし、少し引っかかっている部分もあります。
 

それは「誰にとっても、自分の苦しみって特別じゃないか?」ということです。
 

自分の苦しみは自分のもとにしかやってきていないもので、すべてリアルに感じることができるものです。反対に、他人の苦しみは想像しかできません。たとえ頭が痛くなるくらい想像力を働かせたって、その想像が当たっているとは限りませんし、本人とまったく同じ感情を共有することなんてできません。
 

失恋、仕事での失敗、病気、どんなネガティブなことであっても、少し乱暴な言い方をしてしまえば、それは「ただのできごと」に過ぎません。仕事で失敗した全員が落ち込むとは限りませんし、失恋をしても全員が同じだけ悲しむとも限りません。ただのできごとを特別にするのは、一人ひとり違う「物事の捉え方」です。
 

今、起きていることをどう判断するのか?その基準になるのは、過去のできごとです。その経験から、物事の捉え方が生まれます。そして「冷静に考えると大したことがないはずなのに、どうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろう?」と辿っていくと、自分の感情の背景が見えてきます。私たちの感情はすべて「できごとに対する個々の反応」です。
 

できごとをどう捉えるのか?何を感じるのか?それは、一人ひとりちがうものであり、模範解答もなければ、多数派の意見も意味がありません。
 

私たちは意識的に立ち止まらないと、日常や他人の言葉に流されてしまいがちです。でも、ただのできごとに意味を与えているのは、自分自身の個性に他ならないのです。
 

 

自分自身と向き合っていくと、過去の完了していない感情を見つけることがあります。癒えていない心の傷に出くわすともいえるでしょうか。苦しみは今この瞬間に感じているものもあれば、過去から脈々と流れ着いているものもあります。
 

昔のことを思い返して「えぇ〜っ?こんなこと気にしてたの?」と気づくことは、みっともなくて恥ずかしく感じることもあります。わざわざ、昔の悩みを蒸し返す羽目になって、一時的に過去に向き合う前より調子が悪くなることもあります。
 

でも、この行程を省いて前に進むことはできません。
 

完了していない感情、心の傷は放っておいてもなくなりません。突然のことで、苦しみから一時的に逃れる、悲しみに暮れる暇なんてないときがありますが、そんなときは、いわば冷凍保存されます。放っておいても消えてなくなるわけではなく、解凍する機会を必要としているのです。
 

ジタバタして、泣いて、わめいて、もがいて、苦しんで。それくらい体裁とか外聞を取っ払って、カッコ悪くても全力で感情を味わいつくす瞬間が必要です。中途半端はいけません。すると、感情が「通り過ぎた」瞬間に気づきます。雨上がりのような爽快感とともに、心がふわっと軽くなります。
 

心は、キャパシティオーバーすると壊れてしまうことがあります。それは、今の問題だけではなく、過去の問題を抱えたままだからです。
 

負の感情を乗り越える過程では、どうしても周りの人の力を借りたり、迷惑をかけたりすることが多くなりますが、迷惑をかけずに済むことは難しいです。そこに申し訳なさを感じるよりも、ありがたさを憶えておくことが大切です。元気になったときに、自分が今までもらったものを他の人に渡していけばいいのです。
 

外見も内面も、そして経歴や障害などの特徴も、そこに思い入れがなければ、それ自体は、特別なものではありません。どんなに悲劇的なできごとであっても、できごとそのものに意味はありません。意味を与えるのは、その人の捉え方であり、感情であり、乗り越える必要があれば、それまでの過程です。その先に、その人の生き方や考え方が現れるのではないでしょうか。
 

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この記事を書いた人

森本 しおり

1988年生まれ。「何事も一生懸命」なADHD当事者ライター。
幼い頃から周りになかなか溶け込めず、違和感を持ち続ける。何とか大学までは卒業できたものの、就職後1年でパニック障害を発症し、退職。障害福祉の仕事をしていた27歳のときに「大人の発達障害」当事者であることが判明。以降、少しずつ自分とうまく付き合うコツをつかんでいる。
自身の経験から「道に迷う人に、選択肢を提示するような記事を書きたい」とライター業務を始める。