辛い、しんどい、苦しいという感情は他者には分かるわけがない。

「こんなに苦しい想いをするくらいなら、いっそ消えてしまいたい。」
「社会から疎外されているような気持ちになる。孤独だ。差別だ。」
「誰もこの痛みを分かってくれることはない。」
 

障害、うつ、病気、キャリアトラブル、LGBT。生きづらさに関するジャンルは幅広いものですが、その生きづらさによって、多くの人たちと同じことができない、同じ道を進めないという現実から、孤独感や孤立感、疎外感を感じる方は少なくありません。障害による「できる/できないの壁」、病気による「痛みや苦しみ」などはその背景の具体的な一面でしょう。
 

生きづらさを抱える方々の心の叫びは、SNSやブログなどで見かけます。Plus-handicapにいただく問い合わせ、イベントでのお話などで直接知ることもできます。しかし、残念なことに、心の叫びを受け取ることはできても、分かる・理解するといったことは他者にはできません。
 


 

「分かる」という言葉の危うさ

 

生きづらさを抱える当事者の方々の中には、自分のことを分かってほしい、理解してほしいと願う方が少なからずいらっしゃいます。そう思うことに問題はありませんが、その願いが叶うことは難しいでしょう。「分かる」「理解する」というのは並大抵のことではないからです。生きづらさの背景のひとつである、うつを例にとって説明してみます。
 

例えば、うつであれば、それは本人の内面で引き起こされている問題のため、他者に客観的に状況や状態を伝えることはできません。自分の精神状況を寸分違わずに図で描ける、口頭で理路整然と説明できるならば伝わるかもしれませんが、それは不可能でしょう。うつ状態の心の内を正確に伝えられるスキルをもつひとはいません。相手に自身の状況を伝えられない状態で、分かってほしいと願うことは無茶な話です。
 

また、うつという状態がどのようなものなのか、日本国民全員が知識や情報を踏まえ、共通見解をもっているわけではありません。「うつ=甘え」というような考えをもつ方もいらっしゃいます。そんな状況下で、いきなり分かってほしいという言葉を投げかけることは、相手に無理を強いる結果になります。関数すら知らない小学生に、微分積分の問題がなぜ解けないんだ!と言っているようなものです。
 

さらに、最も大変なことは、うつであるあなたを分かる、理解するためには、うつになった背景を知ること、そしてそもそもの性格や価値観などを知ることが必要であるということです。言い換えれば、うつになった理由を人間性の面から判断できなければ難しいということです。1人の人間の過去から今に至るまでのストーリーを把握していない限り、分かる、理解するという段階に踏み込むことができません。うつを理解してほしいだけなら、本の知識だけで何とかなるかもしれませんが、多くの場合は「うつの私」を理解してほしい、そしてその苦しみなどを理解してほしいはず。自分のここまでの半生の把握を相手に求めるのは、なかなかなヘビーなお願いごとです。
 

分かってほしい、理解してほしいという人たちの中には、分かった気でいる、理解した気でいる人たちに対して、疎む方々もいらっしゃいます。たしかに知ったかぶりのように分かった気でいるという状態は褒められたことではありませんが、当事者ではない側の人間からすれば、分かろうとした、理解しようとした意欲だけでも評価してほしいと願うところがあったり。なかなか一筋縄ではいきません。
 

「知っててくれるといいな」というアプローチ

 

ここまで書くと、生きづらさを抱えたひとに血も涙もない悪魔のような書き味になっていますが、私が伝えたいことは、「分かる」・「理解する」という切り口だとうまくいかないということです。大切なのは「分かってほしい」ではなく、「知ってほしい」というアプローチです。
 

「うつの私ってこんな状態なんだ。ちょっとだけ知っててもらえると助かるよ。」というだけで、言葉を受け取った側のストレスはぐっと軽減します。辞書的に考えれば「分かる」も「知る」も似たような意味をもっています。ただ、たとえ同じことを伝えていたとしても、「分かってほしい」というニュアンスではなく、「知ってほしい」というニュアンスだと相手に責任がのしかからないのです。恋愛でいう「重さ」がなくなることと似ています。
 

また、単に「知ってほしい」と要求するのではなく、「知っててくれるといいな」という願望を伝えるほうがひとは動きやすいものです。願望であれば、行動をとる選択権が相手に移るからです。
 

手をつなぐ6
 

他人の生きづらさなんて自分には関係ない話である

 

疎外感や孤独感を感じる原因にもなりますが、他者はあなたがどれだけ生きづらかったとしても、まったく関係のない話です。もちろん、家族や恋人、友人や同僚が、ふと生きづらさを抱えてしまう状態になれば、自分以外の生きづらさを解消するための知恵を練ることもあり得るはずですが、自分と関係ないひとの生きづらさなんてどうでもいい話です。
 

「自分の生きづらさを知ってほしい」という願いを遂げるために必要なことはコミュニケーション。円滑に言葉が行き交うためには、相手が聞きたくなる話だったり、その時間に価値があると思われない限り、その頻度は増えません。ただでさえ、生きづらさという重たい話。聞きたいか聞きたくないかでいえば、その答えは言わずもがなかもしれません。であれば、どうすれば聞いてもらえるのかという工夫をするのは発信側の役目です。
 

しかし、「生きづらさ」を抱えている真っ最中の方には、ここまでの余裕がないことも知っています。相手のことを気遣う余裕は、自分の生きづらさの改善や解消に使うほうがいいに決まっています。
 

生きづらさの改善や解消は自己受容から始まります。自分自身を受容するために、警察沙汰になるようなことはNGですが、相手の心を傷つけてしまう。これは仕方のないことかもしれません。SNSやブログで自己中心的なことを書く、自分以外のすべてを批判する。これも受容への階段を上るには必要かもしれません。
 

生きづらさを抱えているときは自分自身にしか矢印は向きませんが、生きづらさが解消(軽減)されたときから少しずつ相手や社会にも矢印が向き始めます。相手や社会のことを考えられるようになったとき、「あのときはごめんなさい」と謝ることができるかどうかで、その後の人生の道が大きく拓かれるように思います。Plus-handicapを運営していく中で、生きづらさを抱えていた過去をもち、今は楽しく人生を謳歌している方々にたくさん出会いますが、そのほとんどは過去をうまく完了させている方々だなと伝わってくるものがあります。
 

記事をシェア

この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。