病気で会社を去った二度の涙とその後の暗中模索【脳脊髄液減少症】

以前書いた記事「脳脊髄液減少症の痛みと付き合うための24個の試行錯誤手段。ブラッドパッチ治療後の歩み方」にて、慈恵医大のペインクリニックでトリガーポイント治療(痛みがある頸~背中の十数カ所に生理食塩水を筋肉注射)を始めると書きました。結論からいうと、ランドセン(痛みを抑えるため脳内神経物質の調整用途、抗てんかん薬)の投薬以来の緩和効果のある治療でした。
 

ただ、治療中に2秒ぐらい気を失ってしまったため、医師からリスクがあるのでもうできないと言われました。痛みの切実さを伝えきれなかったのが悔やまれます。まぁ痛くても、直接的には命に別状はありませんが、継続した痛みにより心身ともボロボロに、その過程で社会からの信用や関わりも薄れていくのが、この病気の特徴だなと実感しています。時間経過とともに、文字通り生きた屍度が増していきます。
 

4年間服用を続けたランドセンが効かなくなり早2年。トリガーポイント治療で少し見えた気がした光はすぐに消え去りました。思えばこの時点から、諦めスイッチが入った気がします。その後、自分で何かをコントロールしている実感がないと、この先やっていけないと思い、ジムに通い服のサイズが変わるまで筋肉量を増やしましたが痛みは全く改善していません。半ばやけくそでもありましたが。
 

今回は、脳脊髄液減少症と判明してから過去二度会社を辞めた経緯と、現在までの仕事面をまとめました。
 

●2005年末~2007年夏(休職期間10カ月)

 

音楽の夢を割り切り、裁量権のないゆるゆるSEとして仕事を始めました。働くぞ!と意気込んだもの束の間、初っ端からお気楽サラリーマンでした。
 

就職当時は、頸と背中に多少痛みがある程度で生活に支障をきたすレベルではありませんでした。半年が経過した頃、歯科治療をしました。思えばこれが脳脊髄液減少症との向き合いの始まりでした。治療後なぜか頸が急激に痛み出しました。何も考えられず手がつけられないぐらいの痛みが続き、仕事を休みいくつか病院を回るも原因不明。レントゲンとっても異常はなし。それから2~3ヵ月、だましだまし仕事をしながら原因探しが始まりました。
 

たまたま上司の知り合いが脳脊髄液減少症という病気で症状が似ているのではないかということで、病院を紹介されました。当時、都内では2か所の病院でしか診察・治療をしておらず、受診だけでも予約が一杯でした。診察を受け、検査入院まで半年待ち。入院当日に脊髄へ造影剤を入れ、髄液の漏れをCTスキャンで確認できたので、脳脊髄液減少症と診断され、翌日ブラッドパッチ治療(現在唯一の根幹治療に近い方法、脊髄に自分の血を注入し、瘡蓋を作って穴をふさぐ)をしました。
 

中学生の頃から頸や背中が痛むも、直接の原因は今も不明です。ただ、痛みのもととなる病名を初めて診断され、これでこの痛みの治療ができると少なからず希望を抱いていました。しかし、二度の手術を終えても結局痛みは改善せず、働くこともできないので会社を辞めました。
 

仕事を辞める際、未熟者で何の成果も出ていない私に対し、多くの方が温かい言葉をかけてくれました。社会に出て人の温かさに触れ、不覚にも涙してしまいました。人前で涙を流したのはこの時が最初だった気がします。10年近くたった今でも交流がありとても感謝しています。
 

●2008年夏月~2010年初め(休職期間4カ月半)

 

痛みはあまり改善していなかったように思いますが、体は動かせるし、療養生活にも飽きたので、再就職をしました。今回は、裁量権のありすぎるシステムエンジニア、業務内容としてはプロジェクトマネージャーとして、入社早々大型案件の担当になり、文字通り寝食を忘れ我武者羅に働きました。一息ついた頃、痛みの悪化とともに、痛みでこれまでできていたことができないというストレスに晒されました。そして髪の毛は、急激に禿げ上がっていきました。
 

とうとう限界が来たので上司と相談し、休職して再度治療をすることにしました。詳しくは省きますが、MRI等で物理的な漏れは確認できなかったため、投薬主体の治療となりました。結果的には改善しませんでした。
 

だいぶ職位の高い人「入社時に病気は治ったと診断書を出して、自分もそういって入社しんたんだろ。これは、会社に嘘をついたことになるぞ」

私「嘘はついていないし、入社時は大丈夫だったんです。医者もOK出していましたし」
 

納得がいかないまま、渋々、私は社長へ涙ながらに
「ご迷惑をおかけしました。辞めさせて下さい」
と伝えました。
 

・病気に負けた自分の不甲斐なさ
・尊敬する社長や上司に偽りの気持ち伝える辛さ
・裁量と責任を持って成果を出した自負の崩れ
 

痛みもさることながら、こういったことで仕事を辞めることに悔しい思いをしました。
 

リーマンショックのあおりを受け、リストラが進んでいる中、私だけ病気療養のため休職するというのも社内的に厳しい状況だったのでしょう。たまたま同病の同僚は、症状により信号の色が判断できなくなり自主的に退職したそうです。休職中、病気がよくなったら戻ってこいと声を掛けて頂いたり、定年を迎える方が代わりの要員として再就職しないかと連絡もくれました。社長のビジョンと人柄、上司への尊敬、裁量とやりがい、ヒト・モノ・カネ・納期の管理など様々なことを学べた職場でした。ただ、激務を続けてもいずれ同じ結果になるだろうなと薄々見えていたのでそのまま会社を去りました。
 

●暗中模索し続け、今がある

 

その後いくつかの病院に通い、様々な民間療法などを試しながら、社員にも優しく、誰かのためになるような起業をしようと、漠然とした思いのまま、NPO法人「政策学校」一新塾の門を叩きました。
 

紆余曲折というより原点に立ち返り、学生時代から続けていた子ども達の福祉現場を対象にプロジェクトを立ち上げ、法人化し現在に至ります。十数名の仲間に支えながら3年半が経過しました。
 

プロジェクト仲間と打ち上げ時の一枚
プロジェクト仲間と打ち上げ時の一枚

最近始めた音楽イベントの仲間と
最近始めた音楽イベントの仲間と

 

また、前職以降、向き合うゆとりと意欲がなくなっていた音楽。昨年末から10年来の仲間やその後知り合った音友達とイベントを再開しました。久しぶりに曲作りとライブが楽しいです。
 

ただ、仕事と音楽ともに充実すればするほど、痛みは増していくのが現状です。去年前半、そして今年前半と、痛みによるイライラと自暴自棄、周囲から理解されない・認識されないストレスでギリギリのところを歩んでいます。
 

仕事と音楽は、張り合いになっているのか
苦痛を増しているのか日々悩みもします
同時に喜んでくれる人、共感しあえる仲間もいます
 

痛みで一日家にこもる日々を続けるのか
家の一歩外に出て自分の痛みに偽り普通を演じ過ごすのか
 

止まらない痛みと苦悩の中
道を踏み外しそうになりながら
色々なことを犠牲にし
とりあえず今は踏ん張り中です。

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この記事を書いた人

重光喬之

10年来、脳脊髄液減少症と向き合い、日本一元気な脳脊髄液減少症者として生きていこうと全力疾走をしてきたが、ここ最近の疼痛の悪化で二番手でもいいかなと思い始める。言葉と写真で、私のテーマを社会へ発信したいと思った矢先、plus-handicapのライターへ潜り込むことに成功。記事は、当事者目線での脳脊髄液減少症と、社会起業の対象である知的・発達障害児の育成現場での相互の学び(両育)、可能性や課題について取り上げる。趣味は、写真と蕎麦打ち。クラブミュージックをこよなく愛す。