6畳2間のアパートに家族4人。私は子どものときから家がコンプレックス。
父の稼ぎが悪かったのではなく母がやりくり下手で、消費者金融に借金を抱え首が回らなくなり、自己破産したのが私が中3のとき。ガスが止まっていたので近所の銭湯へ行き、カセットコンロで料理されたご飯を食べた。
虚しくてしょうがなかった。
高校の入学式を控え、教科書や制服を新調する日は雨が降っていた。お風呂に入ってない汚い身体で学校へ行くのが嫌だった。教科書や制服をもらっても、「このお金はどこから出てきたんだろう?」といちいち不安になった。
父と母は常に仲が悪く、毎日喧嘩。そんな日々には本当にウンザリしていた。
早く家を出てひとり暮らししたい。父と母の喧嘩が鬱陶しい。いっそ耳が聞こえなくなればいいのに。布団の中で耳を塞ぎながら、そんなことばかり考えていた。
思春期になり、ますます家に居るのが嫌でしょうがない日々。例えば、好きな男の子に失恋した日も、1人で思いっきり泣ける場所が、家にはない。公園でひとしきり泣いて帰ったことを覚えている。
インフルエンザで熱を出して寝ている真横で、家族がテレビ見ながらご飯を食べる。明日はテストだから本腰入れて勉強したくても、勉強机のある部屋で父が寝るので勉強できない。彼氏や友だちを家に呼べない。「無理なんだ」と言うと不思議がられる。
「やりたいこと=できない」という方程式が私の中に浮かび上がる。
18歳。高校の卒業式。私は卒業式から帰るなり、荷物をカバンに詰め、家出。もう二度と家には帰らない。転がりこむ予定の彼氏の家まで、自転車を立ちこぎしながら決心していた。
その彼氏とは、しばらく一緒に暮らした。仕事もせずフラフラと過ごした毎日。実家とは完全に音信不通になった2年間。
どうせあんな家族なんだ。心配もクソもしてないだろう。
2年経ち、一緒に暮らす男に殴られるようになり、夜逃げを決意。友だちに手伝ってもらって、男がいない隙に荷物を運び出す計画。
ただ、行き先がなかった。でも殴られる日々はもう限界だった。しょうがなく、実家に電話をする。きっとガチャ切りされるか、怒鳴られる。そう思ってかけた。
のだけど、裏切られた。母も父も、私のことをすごく心配していた。帰りたいと言ったら歓迎してくれた。びっくりした。
夜逃げして帰ると、布団が敷いてあった。新調されたフカフカの布団だった。久しぶりに安心して眠った。この家で「安心」を感じるのは子どものとき以来だと感じた。
それからしばらく私はまたこの忌々しさを感じてしまう実家で暮らすことになる。
早くお金を貯めて早く家を出よう。そう決心しているはずなのに、なかなかお金が貯まらないのは、母譲りのだらしない性格のせいだった。25歳になって、彼氏と同棲を始めるのをキッカケにまた家を出た。
ちなみにこの忌々しい実家は、新幹線が通ることをキッカケに取り壊しが決まった。それを機に家族はバラバラになった。
母が離婚を決意し、家を出ていった。弟は就職を機に愛知県へ。父だけが、取り壊しギリギリまであの家に1人で暮らしていた。そんな父も近くにアパートを見つけ、引っ越した。
彼氏と別れた私には、もう帰る場所が本当になくなり、ひとり暮らしを始めた。私の中であの狭い6畳2間の実家のことを考えるとぐちゃぐちゃの感情になる。
まだ父と母が仲が良かった頃の思い出。弟が産まれたときのこと。友だちを呼んで誕生日パーティーを開いたこと。台所で勉強したこと。家出を繰り返してお風呂の窓から家に入ったこと。母の怒鳴り声。父がいつも癇癪を起こして食卓をひっくり返していたこと。
どれも思い出すと胸がギュッとなる思い出ばかりだ。
貧困と呼べる家庭に育ち、将来は絶対にお金持ちになって広い家に住んでやる!と決意していた私は今、東京のボロいアパートに1人で暮らしている。家賃は56000円。狭いけれど1人で暮らすには十分で、気ままにのんびり暮らしている。
母譲りのだらしない性格からお金を貯めることができずにもう37歳になった。収入がなく、貯金や父からの援助で細々と暮らす私もまた「貧困」である。
「貧困」から抜け出せない自分にウンザリしながら、今日もボロアパートで暮らしている。