解離性障害への理解なんていらない。その事実だけ知っておいてほしい。

解離性障害、特に離人症の症状は、どんなに言葉を尽くしても「解離」の状態を正確に言い表すことは難しいと思っています。
 

自分の名前、生い立ち、物の好み、自分の意思、意見、主張などすべてがはっきりとしているのに、それらが「自分のもの」という感覚だけが抜け落ちて「自分が自分である」という実感がまったくありません。
 

これらの症状は、患っている本人にしか理解できない未知の領域でしょう。「3次元ではなく2次元世界に生きている」ような感覚です。だから私は、周りの人には解離性障害や離人症について、理解なんかしてくれなくていいと心底思っています。
 

 

私は17歳の時に突然発症しましたが、両親や友人にもそのことをひた隠しにしていました。なぜ話さなかったのかと言えば「解離の症状を到底理解してもらえないだろう」と最初から諦めていたからです。
 

また、もともと自分の内面をあまり人に言わない性格だったこともありますが、解離性障害の複雑な内面をちゃんと人に伝えられる自信もなく、また同時に、私が両親や友人たちにこころを開いていなかったこともあり、話さずにいました。
 

両親には幼い頃からあまり親近感を感じていませんでしたが、高校時代の友人のことは大好きでした。だからこそ、必死に何食わぬ顔をして毎日を過ごしていました。心配をかけたくなかった上に、偏見を持たれたくなかったのです。
 

今でさえも、うつ病などは「なまけ」や「甘え」と非難する方がいることを思い出してみてください。32年前なんて、精神疾患があることは絶対に隠したい事実でした。大好きな友人に偏見を持たれ、無神経な言葉で非難されたくはなかったのです。
 

解離性障害
 

こういった理由で友人に病気のことを隠していて、それから20年後くらいにやっと彼女らに打ち明けたところ、「どうして私たちに相談してくれなかったの?」という言葉を貰いました。なんとなく責められているような感もありながら。
 

私にとってはとても意外なことで「どうせ理解されないから」と自分の殻に閉じこもっていた私には、青天の霹靂のような言葉でした。
 

彼女らとは生活の違いから疎遠になってしまっていますが、ごくたまにメールのやり取りをしています。「もし打ち明けていられたら、苦しみは減っていたのかな」なんて考えることもあります。
 

そんな私でしたが、20歳くらいのとき、ただ1人の友人にだけは精神の病気にかかっていることを打ち明けました。
 

それは、何気ない会話の中で、
「私、実は精神の病気で病院通ってるんだ」
「あ、そうなんだ、ふーん。」
 

という、実にあっけない会話だったのですが、彼女のあっけらかんとしたところが、信頼感につながり、気持ちを開いてくれました。
 

私が「周囲に望むこと」はまさにこれでした。
 

解離性障害なんて、医師ですら芯からの理解は難しいのですから、友人や家族に「理解してくれ」とは思いません。ただ、「彼女はなんらかの心の病気を患っていて、それで苦しい思いをしているんだな」と、ただそれだけを知っていてくれればいいんです。
 

変に気を使ってくれなくていいし、欲を言えば、症状が現れて倒れこむようになったとき、ただ傍で穏やかに見守っていてくれたらそれでいいんです。
 

解離性障害
 

「あなたのことをもっと理解したい」とか「病気のことをもっと聞かせて」などという考えは、ありがたくはありますが、正直重荷です。病気があるという事実は知っておいてほしいけれど、それ以上は踏み込んできてほしくないのです。
 

私が唯一病気を打ち明けられたのは、彼女が他人にほぼ無関心な人だったからです。人のことには構わない、自分の世界のみに没頭している人でした。いらぬお節介をしたり、理解しようという考えを起こしたりしない人だから、私は気を楽にして、彼女と接することができたのです。
 

精神や心の病を患っているひとは「私のこの苦しみを理解してくれない」と嘆くことが多い印象を受けます。ただ、解離性障害を患っている私自身も、他の精神疾患の方についてきちんとした理解はできませんし、無理に「理解しよう」とも思いません。
 

自分の実体験から、なんとなく想像がつくこともあれば、知識として知っていることがありますが、自分の症状と似ている部分があるとしても、それで「理解している」とか「わかる」とか、言ってはいけないと思っています。
 

他人のことはどんなに近い立場にいても、結局は他人事です。100%理解する・されるなんて、不可能に近いのではないでしょうか。それに、私はやはり、自分の苦痛で精いっぱいなのです。
 

ただ、病に苦しんでいる近くのひとを「理解する」でもなく、それこそ「憐れむ」でもなく「慈しみ」をもって接してもらえたら、それが一番心豊かな「対応」になるのではないかと、解離性障害との長い日々を経て、考えています。
 

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この記事を書いた人

西村 裕子