社交不安障害を抱える人との関わり方は、誰にとってもありがたいコミュニケーションのヒント。

私は人と関わるときに、過度の不安や緊張を感じてしまいます。表面上では「恥ずかしがり屋」や「人見知り」という人とほとんど見分けがつかないかもしれません。ただ、私の場合は社交不安障害という精神疾患のひとつの症状です。
 

一般的には、緊張や不安を抱えていそうな相手に対して「大丈夫?」と声かけをするなど、気を遣うことがあるかと思いますが、社交不安障害を抱える私にとって、気を遣われることや配慮されることは苦痛に感じてしまうこともあります。
 

ズケズケと物を言ってくるような「鈍感な人」、具体的に言えば「私の発する言葉や挙動に関心のなさそうな人」のほうが、関わりの中においてはありがたいときがあるのです。
 


 

私は、他人と接しているとき、常に「自分がどう思われているか」とりわけ「相手が(自分と一緒にいることで)不快な思いをしていないか」ということに意識が向きます。自分の発する言葉や行動の一つひとつに対して、非常に神経質になっているのです。
 

気を遣っての声かけや、表立ったアクションなどは、関わりの中で助かるときはあるものの、ちょっと心苦しく感じてしまうこともあります。相手がこちらの表情や振る舞いを気にしているからこその振る舞いだと思うと、私は「自分の挙動が不自然だったのだろうか?」「緊張していることがバレてしまったかも…」と余計に不安を強めてしまうからです。
 

このことが原因なのか、私は家族との間のコミュニケーションがうまく取れません。
 

私が唯一、社交不安障害であることを打ち明けている相手が家族なのですが、その「気遣い」や「優しさ」によって、かえってお互いが気まずい思いをしてしまうことがあります。元々は非常に仲が良く「自分がどう思われているか」なんてこともまったく気にする必要のない間柄だったのに、どことなくよそよそしくなってしまいました。
 

相手が私の挙動に無関心であれば、私もそこまで気を張る必要はなくなるので、幾分かリラックスした状態で接することができるようになります。家族なのに、リラックスして会話ができないのは大きなストレスになっていたのではと思います。しかし、私としては、嘘でもいいから「何ともないような顔」をしていてほしかったというのが本音です。
 


 

気を遣われたくないという接し方を望む一方で「無下に扱われる」ことに過剰に苦しむという側面もあります。
 

オドオドしている相手に対し、その裏側にある事情や心境を想像しようとせず、オドオドに対するイライラに任せて、ぞんざいな扱いをする。相手の気持ちを慮ることなく、自分の気持ちを優先した振る舞いは「無下に扱われる」ことだと思っています。
 

この振る舞いは、わざとではないこともあるはずです。自分に余裕がなければ、自分の気持ちを優先したくなるときもありますし、目の前の相手の振る舞いを察することができないこともあるでしょう。
 

目の前の相手がオドオドしていたり、不安そうだったりという状態の裏側には、何かの障害や疾患が原因にあるのかもしれない。大変な状況にあるのかもしれない。そういったアンテナを張っておいてもらえると嬉しいのです。
 

「気を遣わないでほしい」と言いながら「無下に扱わないでほしい」なんて、矛盾した主張に聞こえるかもしれません。単なる「甘え」だと思う方もいるでしょう。その指摘は、自分に対して常に投げかけている問いでもあります。求めているハードルが高すぎるかもしれないと思うこともあります。
 

ただ、誰でも一度は、緊張をしたときにリラックスしている人と接して肩の力が降りた経験、ぞんざいな扱いを受けて苦しんだときに、自分の気持ちを想像してもらってホッとした経験はありませんか。相手の置かれている状況や心境を、心の中で想像してみる。こういった関わり方が嬉しいのは、社交不安障害の人だけに限らないのではないでしょうか。
 

記事をシェア

この記事を書いた人

のむら