誕生日は「親に感謝する日」なんて言うひとがいるけれど

先日誕生日を迎え、またひとつ年を重ねました。
 

「生きてるだけで丸儲け」というのは明石家さんまさんの座右の銘らしいですが、生まれたときに歩けるかどうか五分五分以下の確率だった私にとっては「歩けるだけで丸儲け」と言えるかもしれません。
 


 

Facebookなどで友人から受け取る誕生日メッセージ。こんな僕にも幸いなことにいくつか届きました。とてもありがたく、そして嬉しい限りです。
 

しかし、最近ではだいぶ見かけなくなりましたが「親に感謝しよう」とか「生まれてきてくれてありがとう」とか、そんなメッセージを見ると、何とも言えない気持ちになるときがありました。
 

「両足と右手に障害がある」状態を生まれながらに抱えていると、生まれてきてよかったなと思い至るところまでの道のりは、決して平坦なものではありません。周囲を見渡せば、好意的に受け止められているほうが少ないのではないでしょうか。
 

障害に対する周囲からの視線、やりたいという想いと裏腹に障害が理由で諦めざるを得なかった現実、なぜ自分だけこんな体に…というやるせなさ。親や家族に対して、怒りや苦しさなどをぶちまけることだってあります。
 

たとえ今、ポジティブに振る舞っていても、その奥には、人それぞれの葛藤と受容の日々が隠されています。それを「親に感謝しよう」や「生まれてきてくれてありがとう」といった一言で集約されるのは、あまり気持ちのよいことではないのです。
 

勝手に分かった風を醸し出してんじゃねえよ、そういうこと言ってる自分に酔ってるだけだろ的な、そんな本音。これは、障害は個性だよねという表現にも似た香りがします。
 

自分では当たり障りのない言葉だと思っても、相手にとっては地雷である。言った側にはその意識がほとんどなく、むしろ「私、いいこと言った」くらいの爽快感を持っている。そんなひとほど「みんなちがって、みんないい」みたいなメッセージが好きだったりするので、きまりが悪い。言葉が過ぎました。
 

Photo by Sharon McCutcheon on Unsplash

 

最近、小学校で行われている「2分の1成人式」。10歳のタイミングで、将来の夢を語ったり、家族への感謝を伝えたりするイベントですが、私が素直にあれやりたいこれやりたいと伝えられたか、ありがとうと伝えられたかどうか。
 

10歳の頃に深く物事を考えられた憶えはないので、たぶん、何も気にせずに伝えていたと思いますが「無邪気さ故に何も深く考えずに済んでいた」という状態は無類の強さを発揮するものかもしれません。
 

私の場合は「障害受容」がその懸念の背景にありますが、親からの虐待やネグレクト、家族や友だちとの人間関係、セクシャリティの受容など、様々な困りごとや苦しみを抱えている子どもがいることは間違いないでしょう。
 

その最中に「感謝」という誰が見ても綺麗な世界観で、全員同じプログラムに参加するイベントを実施されると、逃れることができず、本人は苦しみ、関係者は喜ぶといういびつさが生まれます。それこそ、ニュースを賑わせた忌まわしい虐待死のような事件が起こっている状態の家庭にも実施できるのか、と勘繰ってしまいます。
 

日頃の感謝の気持ちを伝えるチャンスをイベントで補完することは効率的ですが、その結果、画一的なものになってしまい、多様性が見失われるのは残念な話です。
 

多くのひとにとっては当たり前で、それが世間的に見ても清く尊く、聞こえや見栄えのいいものが、自分にとっては眩しくて、遠くて、掴めないもの。このギャップが周囲と自分との比較や自己否定を生み出し、生きづらさへとつながっていきます。
 

そのギャップを気づかせてしまう無意識的な言葉やイベントたちを、私が好意的に受け取れず、脊髄反射的に取り上げてしまうのは、まだまだ自分が見えない何かと葛藤している表れなのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。