この連載は「ワカラナイケドビョウキ」という不思議な病気になり障害をもった私が、ノーマライゼーション発祥の国デンマークに留学する1年間の放浪記です。デンマークでゴロンゴロンでんぐり返しをしながら「障害ってなんだろう」と考えます。
テレビをふと見ると、画面の中で、多くのキャラクターが騒いでいる。
『ファミリーガイ』というアニメを知っている人も多いかもしれません。1999年からアメリカで放送される、宗教や人種や障害さえもジョークにするアニメ番組です。
1か月の夏休みを過ごそうとドイツに到着し、テレビをつけたとき衝撃を受けました。これ…子供向けのアニメ番組だよね?車椅子に乗った人が空に投げ飛ばされている。アルビノの人が日に焼けて倒れている。子供と同じ身長の大人が、ジョン=トラボルタかのように、ダンシングナイトしている。
ザ・シンプソンズさながらの、どたばたファミリーアニメ。日本の地上波では決して見れないアニメ番組です。
目をぱちくりとさせ、テレビ画面に視線を戻すと、CMに切り替わりました。15秒間で10組のカップルがキスをしているCM。男女、男女、男男、男女、男男…。ナチュラルにいろんなカップルがキスをしている。
そうか、これが、ドイツ(というか、世界の)今か。そう思いました。
次の日、私はハダマール(Hadamar)という町に向かいました。フランクフルトから、列車を乗り継ぎ2時間弱。
ハダマールの無人駅に降り立ったとき、そこは雨が降っていました。どうしよう、地図も傘も持っていない。ここまで静かな街だとは思わなかった。
「あの……ここに障害者の方が犠牲になった施設があると聞いたのですが」
「えぇ、あるわよ。地図、持ってないのね。じゃあ、連れてってあげる」
きれいに切り揃えられた銀色のボブヘアーにショッキングピンクのカーディガン。無人駅のベンチに座っていたのは、瞳がキラキラしている、かわいい、70代のおばあちゃんでした。
ハダマールというドイツの小さな町。そこには、ナチスが大戦中に、障害者とユダヤ人に対する安楽死計画を実行した病院があります。生きるに値する命と、生きるに値しない命を選別し、病院内のガス室に送り込む。強いドイツを築くため、という主張でしたが、ふたを開ければ医療の発達に伴い自然発生した優生思想に加え、社会福祉に掛けるお金がないことを理由にした虐殺でした。
1940年代当時、ドイツ中から集められた障害者が乗った”死のバス”と呼ばれる灰色のバスがこの病院に向かう。バスが病院に到着したあと、病院の煙突から立ち上る黒い煙。被害者の遺族には、死亡日と死亡理由が改ざんされた偽の死亡診断書が送られました。街の人たちは、おかしいと思いながらも声を上げることはありませんでした。
ハダマールでは1941年から42年にかけて、主に身体障害者、精神障害者、適応障害の人々、15,000人が犠牲となりました。
一緒に来てくれたおばあちゃんと二人で、息を切らして丘の頂上にある慰霊塔を目指しました。隣を上って来たアメリカ人の男の人たちが私たちに「暑いね」とジェスチャー。「暑いですね」とおばあちゃんが言うと、男の人たちは耳をふさぐジェスチャーをしました。
~僕たち耳が聞こえないんだ~
そのジェスチャーに、私たちはうなずいて、暑いですねとジェスチャーをし、再び上を目指しました。
丘のてっぺんに着いたとき、おばあちゃんが、慰霊塔に刻まれた文字を説明してくれました。
「この意味はね……Person, take care as a person?(人を人として扱う=他者への尊重)うまく英語にできないけど、そういうことが書いてあるのよ」
そう言って、じっと見つめました。
そのあと丘の中腹に戻って、公民館のような小さな病院に入りました。病院の奥にはガス室のある地下に続く階段。ヒヤッとする真っ白い地下に向かおうとしたときに、おばあちゃんが後ろから私に告げました。
「こっから先はひとりで行ってね、私、ガス室には入らないから」
「わかりました、すぐ戻ります」
そう言って地下に続く扉を開けて、一歩ずつ下っていきました。
そこは、世界から音を消し去ったような場所。
真っ白な壁につたう配管が、まだ当時の温度を持っているようで怖かったことを今も覚えています。これは本当に過去の出来事なのだろうか、まだ私たちはこれを”過去”とは言い切れないのではないだろうか。苦しくて、長くはいれませんでした。
階段を上ったら、おばあちゃんが待ってくれていました。
「電車の時間がもうすぐよ」
そう言いながら、二人で丘を下ります。
そのとき、おばあちゃんがボソッと呟きました。
「あのね、さっき一緒にガス室に行けなかったのはね、私の旦那さんがユダヤ人だったから。彼はね、小さい頃アウシュビッツで過ごしたのよ、7年間。どうして殺されなかったかって?みんなが殺されるわけじゃないの。働ける人は殺されないのよ。命を、選別されてたのね。彼は生き残った。ドイツに戻って来た。けどね。大人になってから心を病んでしまったの。アウシュビッツのときの記憶が消えなくて、夜もよくその話をしていたし、お医者さんにも何回か通ったわ。だから、ガス室には行きたくなかったの。」
「学校では、どう教わったんですか?戦争のこと、虐殺のこと」
「学校で教えられたのは”忘れること”。今は違うけど、戦後すぐの学校教育では、戦争のことには決して触れなかった。誰も喋ってはいけなかったのよ。でも、その教育は間違いだったわね」
そう、語ってくれました。
「良い旅を」
そう言っておばあちゃんは、駅で電車が見えなくなるまで手を振ってくれました。
その1か月後、私は別の街に降り立ちました。福祉の街、ベーテル(Bethel)。ここはナチスの安楽死計画に水面下で抵抗し続けた街です。
150年前は主にてんかんの患者が集まる地域でしたが、福祉の評判を呼んで、多くの障害者や健常者が集まって暮らすようになりました。
東京ドーム約75倍の敷地に、てんかん専門病院など多くの病院、ホスピス、学校、幼稚園、農場、街独自の通貨で購入できるスーパーやホテルが並びます。そして、障害者が通うことのできる研修所(職業訓練所)、アートスペースが軒を連ねます。
障害者に居場所を。
障害者に仕事を。
150年前から続くモットーです。
大戦中、ナチスが街にいる障害者を選別しようと、幾度と街を訪れましたが、そのときの施設長が交渉を重ねました。
「こんな計画、やめてください。殺されていい命があるわけがない」
その結果、ベーテルでは障害者の虐殺は行われませんでした。今では、世界中でベーテルをモデルにした福祉都市がつくられています。
障害者の命を見つめた二つの街。
この二つの街をまわるときずっと優生学という思想が頭を離れませんでした。生きるに値する命と、生きるに値しない命。前までは、真っ向からその論説に反論するための材料を探していました。でも今は、優生学を語る人に、優生学の観点から応えなくてもいいのだと思っています。
私たちはどんな未来を望むのか、その一点のみを考えるべきなのでしょう。
「私たちは、多様性のない未来を望んでいない」
過去から未来への直線の上をまっすぐに走り続ける国、ドイツ。足元に透けて見えるその直線を、思いっきり駆け抜けたいと思いました。
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ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業第36期研修生として留学中です。ミスタードーナツに行くとレジの横に置いてある募金箱。全国の皆様の応援で学ばせて頂いております。