交通事故で頸髄損傷になった私が最初に感じた困難。コミュニケーション。

健常者としてどこにでもいるような普通の女の子として過ごしてきた私、伊藤ユカ。そんな私がある日、交通事故に遭ってから人生は一変。『頸髄損傷』によって車いす生活になりました。
 


 

ICU(集中治療室)での夜、ついに気管挿管を選択した私。
 

 

挿管され、私の記憶だと目覚めたら痰の苦労からは解放されて楽になっているはずだったのですが、そんなに甘くはありませんでした。
 

次に私が意識を取り戻したときには、ICUではなく、初めに運び込まれた救急病棟に出戻っていました。どうやら2、3日はICUで管理されていて、そのあとに救急病棟へ移動したようでした。その間のことは、薬で寝かされていたようでまったく記憶がなかったけれど、しっかりと覚醒した今、私には気になることがありました。
 

事故にあって以来、私の体のなかで唯一動かすことができた表情。特に口周辺に違和感が…
 

中途半端に開けられた口には太い管が入っていて、テーピングで外れないように固定されていました。顔面にこんなにもガッチリとテープを貼られたのは、人生で初めてだと思います。皮膚の弱い唇の部分にもお構いなしにテープが貼られているので、少し動かしただけで唇の皮が剥けそうになって痛くて痛くて。片方の鼻からも管が入れられていて、そのテープも表情筋を固定していて、それもまた少し痛かったことを覚えています。
 

そして、なんといっても、喉の奥。鼻と口からの管が2本も通っているので、飲み込むような動きや、少し舌を動かすだけで咽頭の壁面に異物が当たる感覚が。痛いし違和感があるしで、ものすごく気持ちが悪かったことを憶えています。
 

「あれ?挿管してる間は薬で眠らされちゃうし、起きたときには良くなってるから楽」って、言ってなかったっけ?
 

全然、楽ではないのですが…
むしろ辛いんですが…
ていうか、話せもしないんですが…
なにこれ…
 

私は自分の置かれている状況が、全く把握できていませんでした。
 


 

数時間おきに看護師がやってきて、挿管チューブに付属されている器具で排痰を定期的に行い、体位変換というベッド上で同じ体勢が続かないように、左向きや右向き、仰向けや少しだけギャッジアップ(医療や介護用のベッドにある、背上げや足上げの機能を動かすこと)をしたりしているうちに、何となく自分の状況を視覚情報で得ていきました。
 

ふと見えたベッドの周りには、大きなモニターや機械、口から機械に繋がる太い管や、上から吊るされた点滴の管が腕にも脚にも繋がっている様子。とにかく今の私は、絡まりそうなほどに管だらけ…!!!また、2床分のスペースを使っていることは理解できました。
 

そして左手首にはAライン(頻回な動脈血採血を必要とする場合などに動脈内に留置しておく採血ルートで「動脈内留置カテーテル」と言う)も、たしかこの頃から入っていて、ずれないように添え木されて固定されていました。どうせ動かせないのに(笑)。
 

色々と予定とは違い、自分を俯瞰したらだいぶ酷い有様だったと思いますが、挿管してしまっている分、呼吸は安定。定期的にとる痰は、留置してある管から吸うので、その間、少しだけ息ができなくなるだけ。前よりその点はだいぶ楽でした。
 

でも問題が。
 

挿管しているから、話すことができません。そこで病院側が用意してくれたのが『ひらがな50音ボード』。本来ならこのボードで伝えたい文字を指して使うようなのですが、私は全く動けないので、母がルールを作りました。
 

「私(母)が順番に指していくから、イエスなら瞬き1回、ノーなら2回ね!いい?」
 

私は瞬きを1回して答えました。
 

ボードを使って話すときは、『あかさたなの行』から順番に指しながら私を見る母。それに私は、アイコンタクトで答えます。たとえば「つらい」と言いたいとします。あ行から順番に2秒おきくらいの間隔でボードを指していく母。その間、目的の行を指すまで瞬きをひたすら我慢して、『た行』に指が乗った瞬間に瞬き1回。次は『たちつてと』と順番に指していくので、『つ』を指した瞬間に瞬き1回。
 

「つ?”つ”でいいのね!?」
 

最終確認で瞬き1回。間違っていると2回も3回も瞬きして、必死に「違うよ」アピール。これでやっと1文字。この工程を文字数分、繰り返すこととなります。
 

…果てしない…
 

途中で目が乾いて瞬きしちゃったりすると、意思疎通がもうグチャグチャ。メモ帳に控えた暗号のような文字の羅列に、母が首を傾げます。
 


 

日に日に改良し、よく使う「痰取りたい」や「ナースコール押して」など10種類ほどの文は、5つずつに分けて紙に書き、カードケースに入れて、ボードと同じように母が指しながら意思疎通を図るようにしてくれたので、だいぶ楽にはなったけれど、言葉が話せず、体も動かせない。たった一言すらうまく伝わらず、伝えるほうも受け取るほうも、ものすごく頭を使うから疲れる。元がマシンガントークの私も、このときはさすがに必要最低限の言葉や単語しか使わなくなっていきました。
 

そんな私を毎日面会に来る母は、最初の数分、ほぼ一方的に話し、そのあとは私が職業柄、手荒れが酷かったこともあり、ワセリンなどを使って自力で動かせない指先を伸ばしたりして手や脚をマッサージしてくれたり、化粧水をつけたコットンでスキンケアしてくれたり、洗えない髪をドライシャンプーしてくれたり、身の回りの手入れがひと通り終わってしまうと、Aラインが入っていない右手を繋いで、ベッドにもたれていつの間にか寝ているという毎日。
 

ちょうどこの頃、右腕だけ少し動くようになってきていて、母が寝ていたり、よそ見をしていたりしても、手さえ繋いでいれば母に気づいてもらうことができました。
 

特に「違う」というジェスチャーのときは右腕肘下だけを、今できる精一杯のバタつき加減で反応して見せ、「ああ、違うのね」とよく笑われました。
 

あの頃の私は、右腕が少し動くようになっただけで、重力には全然勝てなくて。天井に向かって腕を上げることはできず、ベッドをさするようにバタつかせることしかできませんでしたが、それでもアイコンタクトしかできなかった日々からすると、随分と意思疎通の幅が広がって感動すらしていました。
 

左腕も少し動くようになっていましたが、Aラインも入ったまま添え木もされていたので、恐くて動かせませんでした。ここでの動かし方に差が出ていたせいか、のちのリハビリで苦労することを、このときの私はもちろん知らずに「動くようになってきた♪」と、このまま回復していくものだと信じていました。
 

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伊藤 ユカ