不登校の子と初めて関わることになったとき、会社の先輩に「不登校の子と関わる時に気をつけること」として言われたことがこの2つでした。
「勉強」という言葉を使うな。
「学校」という言葉を使うな。
いざ不登校の子と初めて顔を合わせたとき、挨拶の直後に言われたことが「本当は学校に行って勉強したいんです」でした。いきなり「NGワード」両方とも言われました。
私自身、現在はフリーランスでライターをしていますが、今年の3月までは教育事業に関わる会社で働く会社員でした。社会人生活2年間で株式会社3社とNPO1社に勤め、そのうち1年8か月は「不登校支援」に関わる仕事に従事しておりました。勤める先々でいただいた「不登校支援以前にあなたが社会不適合」という言葉が転職回数にも如実に現れており、履歴書の職歴欄はいつも豪華で気まずいことには、そっとしておいてください。
「不登校」という言葉を聞いたとき、皆さんはどんなイメージを思い浮かべますか?文部科学省が定める「不登校」の定義は、
年間30日以上欠席した児童生徒のうち、病気や経済的な理由を除き、何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にある者
とされていますが、「不登校」という言葉を聞いてすぐこの定義が出てくる人は少なく、その人それぞれの「なんらかのイメージ」が浮かぶのではないかと予想しています。
かつての私の「不登校」に対するイメージは「怖い」「精神的に病んでいる状態」でした。中学時代、私の学校にも不登校だった先輩がいて、その先輩が同級生を殴った、その先輩は精神的におかしかった、当時そんな噂を聞いていたことから根付いたイメージだったと思います。
実は冒頭の話は私自身に宛てられた話ではなく、前職の上司が保護者向けに開催していた「不登校勉強会」にて話していた内容です。つかみの笑い話ではありましたが、個人的にはとても重要な話だと今でも思っています。
1年8か月の間に、小学生から高校生の不登校生、大学生や社会人の不登校経験者の方など約200人の方々と関わり、相談にのったり、勉強を教えたり、受験対策をしたり、ランチ会をしたり、イベントで遊んだりしてきました。その中で私が強く感じたことが、冒頭の上司の話にはエッセンスとして込められています。「不登校だからその子は〇〇である」という決めつけは怖いということです。
上司が話した例を使うと、不登校だからその子は「学校」や「勉強」という言葉に抵抗があると決めつけて相手と関わってしまうことが怖いということです。相手は内心「学校で勉強がしたい」と思っているのに、支援者側がその気持ちに気付けなくなる、最悪の場合相手が本当に望んでいる選択肢を支援者が剥奪してしまうという皮肉な事態が発生してしまいます。
また似た話でいうと、不登校だからその子は「学校が嫌い」「学校に行きたくない」のではないかという考えをよく耳にします。学校に行っていないのだから、学校が嫌いで、学校には行きたくないのだろう。そういう考えに至るのは一見自然な気もします。
では、相手は本当に「学校が嫌い」で「学校に行きたくない」と思っているのかというと、正直に言って「いやいや相手によります」が私の結論です。学校には行っていない、だけど「学校が好き」で「学校に行きたい」と思っている子は確実に一定数存在していました。頭ではそう望んでいても体や心が追い付かなかったり、長く休んで戻りにくくなっていたりといった「行きたいけどいけない」という状態は存在し、それは「行きたくないから行かない」の状態とは非なるものではないでしょうか。
不登校の子には「学校が嫌い」で「学校に行きたくない」ならば「学校に行かなくてもいいよ」と声をかけ、まずは気持ちを楽にしてあげましょうという支援者の言葉を聞いたことがありますが、優しそうに見えて随分乱暴な考え方だと感じました。その言葉で気持ちが軽くなる子がいるのは確かですが、その相手が学校嫌いだといつどうやって確かめたのかと噛みつきたくなります。もしその子が復学を望んでいるならば、復学に向けた支援ができるはずで、支援者側の決めつけでその支援ができなくなるのは本末転倒ではないでしょうか。
相手が必ず本音を話すわけでもなければ、相手のこころの奥底を「悟れ」というのも無理があります。決めつけることなく、相手のことを知ろうと関わってみたときに、自分自身の思い込みとは異なった相手の姿が見えるかもしれないし、「じゃあ自分ができることはなんだろう」と自分の頭で考えることにつながります。決めつけに基づく諸対応の一般化は思考停止に他なりません。
「思い込みを疑う」ということは、不登校に関わらず対人関係や社会生活の中で非常に重要だと考えています。「こうだからこうだ」と簡単に決めつけられるほど人のこころは単純ではないことを、たくさんの出会いを通して教えてもらいました。
「不登校だから〇〇」という安直な決めつけを取り払いたい。
「不登校」というラベルの向こう側にある「その人自身」の姿を見て声を聴いてほしい。
私が実際に現場で感じてきたことを発信することで、不登校に対する世間の「決めつけラベル」をペラリペラリと1枚ずつでも剥がしていくことができれば、社会不適合なりに2年間教育業界でもがいてきた甲斐がありそうだと自己肯定できそうです。こうやって原稿を書くことを通じて、その人自身ではなく、その人の立場や状況(今回の場合は「不登校」という状態)に対して、社会や個々人が無意識の間に貼り付けているラベルを剥がしていきたいと思います。