9月23日、神保町大学という学び場での「これからの定義の話をしよう」にゲストコメンテーターとして参加しました。
テーマは「キャリアについて」。雑談の中から「従来・現在の就職活動の常識を覆す」というコンセプトで何かやろうという話題で盛り上がったのが発端です。当日、共にゲストとして参加したPlus-handicapでもライターを務める坂本さんと、普段は言えない本音をぶつけ合おう!ということで盛り上がり、その場で開催が決定したという勢いから生まれたイベントでした。
3連休の最終日ということもあり、参加者は少なめでしたが、少人数だからこそできる本音トークと参加者との意見交換は私自身にも多くの発見がありました。その一つが、不確実性の高い時代になっているということを多くの人がわかったうえで、それでもなお、ロールモデルを求めているということです。私は職を転々として今は独立している身なので、自分のロールモデルを設定して真似をするということはやってきませんでした。しかし、多くの人は自分と同じ境遇から成功した人や、尊敬できる人を探しています。
たしかに、ロールモデルを見つけることは大切です。企業が社員を変えたいと考えるときには、ロールモデルをつくることは重大な課題です。ただし、会社という組織であれば、年収や役職など目標にすべき指標がある程度定まっています。一方、キャリアという広い概念で考えると、目標の達成度を測る指標すら人によって様々です。年収や名声が重要と考える人もいれば、自由になる時間が重要だと考える人もいます。やりがいを求める人は何をもってやりがいの達成度を測るのかなんて考えたこともないという人もいるでしょう。
今回のイベントでは、坂本さんが「そもそもキャリアという言葉が嫌い」という発言をされていました。私はキャリアを考えることが重要だと考えていますが、嫌いという感覚はなんとなくわかります。キャリアという言葉自体が漠然としていて、人によってとらえ方も違うので、当然目指すべき方向も変わってきます。それなのに、学校の勉強と同じように何か正解がありそうな雰囲気が依然として残っているのです。
ロールモデルという考え方も「一つのこたえ」として捉えられてしまっているがために、ロールモデルから外れた人たちにとって「自分は不正解」という劣等感を植え付けてしまうきっかけになっていのではないでしょうか。例えば、大学を卒業して大企業に入ってそこそこ出世して定年まで勤めることがロールモデルと思っている人にとって、最初の大企業での就職という部分で躓けば「自分はロールモデルに乗ることができなかった」という感覚が芽生えます。
しかし、今、私たちがロールモデルとして捉えている人が大学を卒業して企業に入ったのは数十年前なのです。インターネットもなければ、一般には携帯電話すら普及していなかったような時代に学生だった人が、本当にロールモデルとなり得るのでしょうか?確かに参考にすべき点はたくさんあると思いますが、あまりに時代背景が違います。当時と今では求められるスキルも違います。一般的に、IT技術の発達によって一人ひとりに求められる付加価値は昔よりはるかに高くなっていますし、同時に要求される能力水準も高まっています。
さらに、昔は成功モデルだと思われていたものが現在では通用しないというケースも十分に考えられます。日本のバブル期にアメリカで「JAPAN as №1」がヒットしたにもかかわらず、バブルが崩壊しているという例もあります。
先日のイベントでも、ロールモデルの不在が就活生や現代の若い世代を不安にさせているという意見がありました。確かにその意見は一理あります。しかし、同時にロールモデルを求めてしまうこと、無理やりロールモデルをつくってそこに自分や他人を当てはめようとしていることが、生きづらさの原因にもなっている気がしてなりません。参考事例とロールモデルは違います。良い点を真似するのは必要でも、その人と違う部分があったから負い目に感じる必要なんてまるでないのです。
1年先だって予見するのが難しい時代なのだから、何十年も前の時代を過ごした人のロールモデルなんていい加減捨ててしまっていいのです。