「クリスチャンになったんだ」
それは突然の告白でした。この時、Aはとても清々しい表情でした。
Aとは高校時代に放課後の教室で「お互い、人生どうなるんだろうねぇ…」と薄暗い不安に満ちた気持ちでつぶやいたことを、今でもはっきりと覚えています。
今思えば、当時の私たちはどこにも「自分らしさ」を見出す先がありませんでした。そして、そんな自分たちの未来に期待をできなかったのです。
それから10年以上の時を経ちました。Aがクリスチャンになったきっかけは、ホームステイだったそうです。
それまでにもAの人生には「宗教」に通じるいくつかの予兆はありましたが、彼女が何かを信じる身になるとは思いもよりませんでした。実際、クリスチャンになるまでには結構な葛藤もあったと聞いています。
そんなAがクリスチャンになったことを告白してきた時、私は瞬時に、Aはついに自分の「寄る方」を見つけたのだと確信しました。そして、その確信と同時に、Aに対して「羨ましい」と強く思った自分がいました。
悩み続けた末、ようやっと自分らしさを見つけたAを素直に祝福すればいいと、頭では分かっています。それでも、これまで同じように悩み続けていたAが、自分よりも先に、突き抜けて自分らしさを見つけたことに嫉妬すらしたのです。
これまで山あり谷ありの道のりを同じような速さで歩いていた仲間が、急に前に進み出してしまったように感じました。もう、どんどん遠くなる背中しか見えない。私は暗い山道でひとりになってしまったようでした。
Aのように私も何かの宗教を信じたいわけではありません。ただ、私は自分が立ち返ることのできる「何か」を求めているのです。
生きていく上では、物事がうまくいくことももちろんあるけれど、迷ったり、間違ったり、立ち直ろうとしたり、そんなことの繰り返しでもあります。
だからこそ、何かの判断や考えに困ったとき、立ち返ることのできる場所、もしくは原点のようなものがあるというのはとても大事なことだと思うのです。自分にはないからこそ、余計にそう感じるのかもしれません。
私だって、この10年以上、何もしてなかったわけではありません。勉強、趣味、インターンシップやボランティア活動。その時々で頑張っていたこともたくさんあります。
それでも、その全てが中途半端に感じてしまいます。「これ!」という実感がなく、自分は根無草のようなものだと感じてやみません。やりたいことも、あっちへふらふら、こっちへふらふら。「これが私の生きる道」あるいは「これが私のすべきこと」と言えるようなものがないことが、コンプレックスですらあります。
自分は何者なのか。
この問いにいつも苛まれ、そして今のAのようにはっきりした答えがないことに、また落ち込むのです。
しかしながら、自分が何者なのかがわからなくても、日々の生活は維持しなければいけないし、人生は進んでいきます。
例えそうであっても、私は、私が何者かを知りたいし、それを知った先の自分がどう生きていくのか、どう生きていきたいのか、その答えをどうしても求めてしまうのです。
今は、寄る方なく、何かを「とりあえず」「なんとなく」やっていることに罪悪感すら感じます。本当にこれでいいのかを決める軸がないのです。長らく根無草として過ごしてきた私には、立ち返れる場所がありません。
それで良いかもしれないし、良くないかもしれない。どっちもありかもしれないし、どっちも間違いかもしれない。迷いは尽きません。優柔不断だとか、覚悟が足りないとか言われてしまえばそこまでですが、それでも私は迷うことを、自信が持てない自分を、捨てられないのです。