高校の同級生と会ったら子どもの写真を見せられて「可愛いだろ」と言われました。「可愛いね」と返したら「子どもがいないヤツは」マウンティングが始まりました…
ああ、めんどくさい。
そんなマウンターを見ていて、高校時代に「うちの親父ムカつく!」と言っていたのと同じ”親父”になってるやんとツッコミたくなりました。
「結局、カエルの子はカエルなのか……?」
思い返すと高校生のころ、僕は彼らの話を「くだらないな」と思いながら聞いていた気がします。
「おかんが風呂に入れってうるさくてムカついた」
「親父にタバコが見つかって怒られた!」
みんな、主語が「私は、僕は」だったんですよね。「それぐらいなら自分でどうにかできるんじゃないの?」と思っていました。僕はそのころ「うちはこのままじゃ、また家庭が崩壊するな…」と「私”たち”」のことを考えていたように思います。それは20年経っても変わりません。
この「私”たち”」の感覚って、「私は」の人にはなかなか伝わらないんです。
「こうするといいのにな」って話も「つまり、お前も『ムカつく』って言ってるんだろ?」と受け取られてしまう。
仕事でもそんなことありませんか?
「客がアホなこと言ってきて”俺は”ムカついた」「上司に怒られて”私は”悲しかった」。主語が「私は」の人に「このままじゃうち(俺”たち”)の部署、会社はやばいかも」なんて話をしても噛み合わない……
「そんなことどうでもいいから私の話を聞いてくれよ」
「その話は、誰が悪いんだ?」
僕はこの「僕”たち”」の悩みを話して「”お前だけ”が苦労してる訳じゃない」と言われることにとても傷ついてきました。
「苦労した、辛いんだ」と話している訳じゃないんです。自分ひとりで考えていろいろやってみたけどどうにもならないから、「どうしたらいいのか」と相談しているんです。でも、どうしても「苦労話を聞かされている」と思われてしまう。
言いかたを変えてみたり、内容を変えてみたりしたもののどうしても「ここで悩んでいる」「これを解決したい」が伝わらない。「これは僕の話しかた、内容が間違えているのではなく、僕と相手の捉えかたが違っているのかな」、そう考えたらいろいろ腑にポトンしました。
そして、どうしたか。
ひとりでじっと耐えて、考えて、「自分が親(上司)になったら」と妄想していました。年々、「妄想してきて良かったな」と実感することは増えています。
「子育てはマネジメントの勉強になる」なんて話が注目されたことがありましたけど、子どもって「自分の言うとおりにならない存在」なんですよね。
“先輩”や”上司”と呼ばれるようになっても、後輩や部下からは逃げられます。でも、”親”になったら子どもと向き合わなくてはいけません。子どもからは逃げられないんです。
一方で子どもにとって、親は「産まれて初めて出会う他人」。
親が子どもと上手く関係性を構築できれば、その後に出会う”他人たち”とも良い関係性が結べるんじゃないか。でも「良い親とは?」「親の役割は?」なんて、「子どもが産まれてから」じゃないと考え始めない。もしかしたら、子どもが産まれてからも考えられない人もいるかも……「”私は”、自由がなくなった」とか「”僕は”、こうしたいのに」とか。
昔は長屋や大家族など、複数の”親”が協力してやってきたことだけど、いまは母親と父親の2人でどうにかしないといけない。離婚をしたら”シングル”で向き合わないといけない。
だから、plus-handicapで「親」とか「子ども」とか「関係性」とかを真面目に考える、インターネット上の「長屋」みたいになれるといいのかもなと考えました。「ナレッジを集める」なんて大それたことは考えてません。ただ、みなさんの妄想を聴いてシェアしたいと思っています。
とりあえず「お前だけが苦労してきたわけじゃない」なんて言わないので安心してください。