コロナ禍に直面している今だからこそ、生きづらさを防ぐ手立てを考える。

出口のないトンネルの中にいるって、本当に生きづらい。
 

コロナ禍の中で、いつになったら緊急事態宣言が解かれるのか、自粛が終わるのだろうかと考えるたびに、息苦しさが増します。
 

元々、誰からも縛られない自由さを追い求めるタイプなだけに、コロナウイルスという見えない脅威と、どうすれば自粛期間が終わるのか全然示されない曖昧さは、ボディブローのように堪えてきます。
 

現状を切り抜けるには、後ろ指を指されるような振る舞いをするしか見当たらないのは、結構しんどいものです。
 

コロナ禍
 

生きづらさを生み出す理由はさまざまにありますが、共通して言えるのは「終わりが見えないこと」でしょう。痛みや苦しみ、不安や恐怖、我慢や忍耐はいつまで続くのか。この生活や人間関係からいつになったら抜け出せるのか。場合によっては、終わらないことが判っていたり、悲劇的なカタチでしか終わらないと知っていたり。
 

今まで生きづらくなかったひとにとっても、生きづらかったひとにとっても、平等に、生きづらさとはどういう状態なのか?を考える機会をコロナは生み出しているのかもしれません。
 

自分にとって生きづらさを発生させる要素は何なのか。
 

「命を脅かす何か」かもしれないし「生活を脅かす何か」かもしれない。「同調圧力」とか「信頼できないリーダーシップ」とか、今まで発生源として口外してこなかった要素も含まれてくるかもしれない。
 

afterコロナ、withコロナ、いずれにせよ、ちょっと落ち着いた未来に、コロナ禍の中で浮かび上がったストレスや不安感の流れとその理由を自分の中で振り返ってみると、生きづらさを防ぐ手立てが一人ひとり見出せるのではないでしょうか。
 

個人的には「選択権のほとんどが自分にはない状態」って本当に生きづらいのだと刻み込まれました。生まれつきの障害なんて生きづらさを感じる理由や背景になりませんでしたが、コロナでの自粛は、どうなると自分が生きづらい状態に陥るのかを、明確に教えてくれました。
 

自分にとって「選択権」がこんなに大きいことだったとは。ちょっと感じていたけれど、これは確信に変わりました。
 

いつやるか、どこでやるか、誰とやるか、何をやるか、どうやるかといった、ひとつひとつの選択において「コロナだから自粛しましょう」という制限(この制限がいつ、どうすれば解かれるのかわからない)はとてつもないストレスになっています。
 

だからといって、今すぐにこれをやりたいという明確なものがたくさんあるわけではないのですが、そもそも選択の自由が自分ではコントロールできないものにほとんど蝕まれているのは許容できません。
 

たぶん僕が入院生活や家に帰れない缶詰生活に陥ったら、すぐにパニックになる、あるいはすぐに死にそうです。そんな大げさな…と言われそうだけど、究極の病院嫌いであったり、定時通勤や拘束時間に過剰に反応したりという自分のこれまでの性分も、振り返ってみるとつながります。
 

コロナ禍
 

生きづらさを防ぐとは、こういうことなのでしょう。
 

社会が、環境が、周囲が、とかではなく、自分を主語にして考えてみて、自分のどんな要素が生きづらさを生み出しているのか、どうなったら生きづらくなるのか、自己分析を進めた分だけ、自分の生きづらさを発生させずに済む可能性が上がるのかもしれません。
 

誰の意見に対しても、否定や批判をする意味はありませんし、どちらがより生きづらそうかなどを比較検討する意味もありません。自分のことを知れば、予防と対策ができる。相手のことを知れば、声かけと気遣いができる。ただ、それだけのことでしょう。
 

今回のコロナ禍は、今までの自分の中でも、かなり生きづらさバロメーターが上がっています。3.11のときと似ているようで全然違います。それ自体が気づきであって、気づいたからこそ次に進めそうです。コロナ禍の先にある未来は何かが大きく変わりそうという予感は、多くの人に訪れているのではないかと思いますが、コロナの恐怖や命の危険以上に(これは強がりではなく、自身の死生観から来ています)選択権が重要だったというのは、これからの指針になります。
 

プラスハンディキャップのミッションでもありますが、自分の人生の主導権は、自分でがっちりと握っていたい。
 

ただ、ここまでじっくりと考えられるのは、自分や自分の身近な人たちがコロナに感染しているわけでもなく、感染医療の最前線にいるわけではないからです。経済面では何も考えたくないくらい、ですが。こんな自分の状況だからこそ、自分自身の思考や価値観を整理して、明日を待つことが大切なのではないでしょうか。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。