障害者への「配慮疲れ」から考えた、合理的だけではない「快適への配慮」という考え方。

「桜井玲香 乃木坂46卒業」というニュースが7月初めに飛び込んできたとき、仕事だけでなく、すべてのことに意欲が湧かない日が続いていました。
 

何をやるにも楽しくない、面白くない。仕事したくない、人と関わりたくもない。でも、納期が迫ってるから仕事やらなきゃ、連絡しなきゃ、指示出さなきゃ。ああ、めんどくさい。
 

そんな、日々のエネルギー量が普段の1%ほどしかないようなときでも、ともに働く障害のあるメンバーに対しての配慮はしなくてはなりません。障害者に対する合理的配慮(障害が原因で発生する困りごとに対し、できうる範囲で配慮すること)が求められているからです。
 

障害者への配慮
 

うつ傾向のあるメンバーには業務指示の言葉を選んだり、口調を穏やかなものにしたり…いやいや、こういうときぐらいこっちを配慮して。ってか今日に限っては、気遣いの方向、逆にして…
 

作業順序を伝えないと混乱しやすいメンバーには、業務の細分化、手順の指示、報連相のタイミングなどを伝えたり…いやいや、いつもと同じ仕事じゃん。今日は自力で頑張ります、みたいな一言あっても。
 

業務をお願いした2人よりも自分のほうが今は配慮されたいくらいなんやけどな、むしろ自分よりも2人のほうがめちゃくちゃ元気やんと思いながら、ルールって世知辛いなと感じていました。
 

障害者って、こちらの都合は関係なしで配慮される立場なんだよな。ルールっていいよね。という言葉が駆け巡りました。
 

とはいえ、僕も障害者なんだけどな。あ、身体だから、気遣い的な配慮は該当しないのか…
 

障害者への配慮
 

障害者に対する配慮を義務だから、ルールだからと考えて実行すると、先日の私のように「やらされ感」や「被害者意識」のようなものに潰され、めんどくさいものだと感じるようになります。
 

「やらされ感」で配慮を行えば、前向きに関わることができず、なぜやらなくてはならないのかと、それこそ怒りのような感情を抱いてしまうこともあります。
 

見返りがあるのか、評価が上がるのか、感謝されるのかといったメリット・デメリットの判断にもつながりかねず、また、相手のネガティブなところ、足りないところにしか目がいかなくなり、いわば、差別的な気持ちが広がってきます。
 

障害者に対する優しさや思いやりといった、感情的な部分を軸にした配慮だと、配慮する側・される側の線引きが鮮明になり、上下主従のような関係性が生まれる懸念があります。
 

小さい頃に「障害者は大変、かわいそう」といった言葉が刷り込まれやすいのは「障害のある人には優しくしましょう」という教えがあるからです。「障害理解」も同じ系統に入ってしまうかもしれません。
 

みんなに優しくすればいいのに、なぜ”障害者に”と限定するのか。
 

意識的にせよ無意識的にせよ、限定したことによって障害者と健常者という境界線が生まれます。その境界線を介した配慮に対等性があるとは考えにくく、少なくとも、障害当事者として、この視点での配慮を快く感じたことはありません。
 

ここまで話したような考えに至る人が多いのかと言われれば、それはわかりません。僕だけかもしれません。また、いろいろな取材を通じて介護疲れにも似た「配慮疲れ」が発生している現実を感じるようになったから、こう思ってしまうことも否定できません。
 

ただ、ここまで述べたことと違う観点にたどり着いたとき、少しだけ心が晴れました。
 

障害者への配慮
 

それは、義務でもルールでも、優しさでも思いやりでもない「お互いの快適さを追求する」という観点です。
 

あなたと僕(僕たち)にとって、どうすればお互いが快適にいられるかどうか。それこそ、障害がある人とない人が共にいる環境の中で、互いにとって一番快適な状態を目指すことに意識を傾ければいいのではないか。
 

快適とはいい言葉で、快い・心地よいという精神的な意味もあれば、適している、ふさわしいという機会的・物理的な意味も含まれます。
 

そこにいる全員にとって快適な状態をつくるために、一人一人ができることを考える。障害のある・なしは関係なく、自分ができうる範囲の行動、もちうる意識を動員し、全員で協力する。誰もが配慮する側にも配慮される側にもなると考え、自分の振る舞いを見直す。
 

自分が気持ちよく配慮を受けられるように周囲に配慮することも大切で、相手に快く配慮してもらうための行動や意識を求めてもいいのではないでしょうか。障害者だから配慮するだとか、合理的配慮だとか、そんなものがなくても自然と配慮が生まれるはずです。
 

また、物理的な障壁があり、誰かの力を借りなくてはならなくなったときにも、この人のために力を貸したいと思えるかどうかは、少なからず影響はあるように感じます。「助けてもらって当たり前」が通用するほど、まだ成熟した社会ではありません。
 

障害者への配慮
 

配慮を「する側・される側」の一方通行の矢印ではなく、双方向(全方向)の矢印で考えるだけで、相手に対する尊重と興味、自分に対する分析と改善が生まれやすくなります。自分でできることと相手のためにできることを考え、増やし、行動に移していけば、それだけでその場の快適さは増します。
 

ただ、これは障害者に限らず、今を生きるすべての人にとって、共通して言えること、考えられることで、セクシャリティやジェンダーの問題、出産や子育て、介護などといったライフステージの問題など、それらすべてに対する配慮の場面でも、同様のことが言えます。
 

すべての人にとって暮らしやすい社会というような、ふわりとしたものを目指していくならば、ルールや制度のようなものだけで作り上げていくだけでは限界があります。「ルールだから」という言葉で配慮を求めるのは、なんだか強制されている気もします。
 

問題解決や便利さを追求する合理性だけではなく、お互いにとっての快適さを軸とした配慮を考えていくこと。そのために、自分の周囲に目を配り、その存在を尊重できる、一人ひとりが心の余裕を持つこと。
 

あなたと私、という身近な関係性からでも、お互いにとって快適な環境を整えようとする人が増えれば、それだけで、幸せを感じやすい世の中になるのではないでしょうか。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。