花粉症で生きづらいとか言っちゃダメですか?生きづらさの平準化を考える。

花粉症がしんどい。
 

目かゆい。肌かゆい。鼻水止まらない。呼吸苦しい。ごはんの味しない。基本、やる気わかない。仕事とかしなくていいですか?今月の生活費、誰か寄付してください。ああ、生きづらい。
 

30歳になるまで花粉症で大変な思いをしているひとを、上から目線で大変そうだね、俺には分からないわーと蔑んでいてごめんなさい。そんな目でみるひとすべてを呪ってやりたいくらい、悶えています。
 

すべての木が原因ではないことを知っていますが、目に映る木々たちすべてを焼き払いたいと、冗談なのか本当なのか、自分では判断つかないまま、うそぶいています。
 

たぶん、僕は相当生きづらいクラスにいるはずです。いま。
 

こんな写真見てるだけで、くしゃみと鼻水が止まらない。

 

でも、僕は知っています。某放送局のなんちゃらネットTVとかが伝える生きづらさの多く、たとえば、発達障害だとか難病だとかLGBTだとか、そんな状況でしんどい想いをしている方々からすると、花粉症とかでああだこうだ言うんじゃないよとお叱りを受けちゃいそうなことを。
 

偏見や無理解に悩んでいる、自分の身体や心が明日どうなっているか分からない、他者との関係性が築きづらいなど、それらはたしかに大変だと思いますが、”花粉症程度”と言われそうな比較やご批判、花粉情報に左右されるコンディションもまた、なかなかに生きづらいのです。僕にも明日は見えません。
 

花粉症って、アレルギー。十分に危ないものなのに、花粉症だと”その程度”感が拭えない。母数が多いとそうなってしまうのか…
 

花粉症のベテランの方々にもこう言われそうです。「まだ2,3年やん」と。たしかに10年選手、20年選手から見れば、直近で苦しんでいるくらいで偉そうな態度とるなよと諭されそうですが、つらいのは一緒じゃないですか?仲間に入れてくださいよぉ〜と切に願いたくなります。
 

生きづらさに偉いも偉くないもなければ、どっちが生きづらい?を考える必要もありません。
 

「生きづらさがある」という状態が、生きづらいひとそれぞれに等しくあって、その大小も、その背景も、比較することがおこがましい。それこそ、生きづらさ合戦をしたところで、何も残らず、心が焼け野原のような状態になってしまうと思いませんか?
 

花粉症で生きづらいを社会全体が明るく認めてくれる時代になればいいのに。
 


 

僕は奇形児として生まれ、重度身体障害者として生きてきました。生きづらさに直結しそうな背景は障害です。ただ、今の僕の生きづらさは花粉症。そして最近のトレンドは薄毛と体臭です。30歳を超えると悩みが増えてきました。
 

障害者がその障害にコンプレックスもなく、障害を乗り越えた的な涙ぐましいエピソードもなく、淡々と生きてきた中で出てきた大いなる悩み、生きづらさの発生源が花粉症、薄毛、体臭というのは、皮肉な結果かもしれません。
 

花粉症で生きづらい。
薄毛(生え際)が気になって生きづらい。
体臭(特に足)がヤバくて生きづらい。
 

「生きづらさ」に関するメディアの特集で出てくるテーマではありません。
 

それこそ、気圧の変化で体調が悪く…とウツの方が言えば、会社を休むことができそうなのですが、本日快晴で花粉の飛散がヤバそうなんで家で仕事していいですか?と言えば「は?何言ってるの?」と上司の機嫌を損ねそう。ちゃんと仕事するんだけどな…。
 

薄毛や体臭だって、他者との関係性を築く上でのコンプレックスには十分になりえるのに、それを理由に人間関係がうまくいかず…というのはちょっと違うよねという雰囲気が漂い、痛い視線が突き刺さります。障害が原因で…というのは許容されても、外見そのまんまはアウトなのか。そりゃそうだよな。
 

生きづらさを生み出す原因に、清貧的な価値観だったり、可哀想、不幸せ、自分では変えられないものなどといった要素が必要になっているのは、尊重すべき方向性です。しかし、そこに排他性が生まれてしまっているのは不運かもしれません。
 

生きづらさ当事者発信をしているひとほど、多様性や寛容性を求めていそうなのに、あるテーマによる生きづらさを許容しないのであれば、自分たちが求めていることとやっていることにギャップが生まれているのではないでしょうか。ソレとコレとは違うとか言い出すなら、いっそ、多様性とか使わなければいいのに。
 

原因や背景なんてきっとどうでもよくて、生きづらさを抱えているという状態そのものを捉えることが、これからは求められる。そんな確信に近い予感がします。
 


 

Plus-handicapを立ち上げた6年前と比べると、生きづらさという言葉を多くの場面で目に、耳にするようになりました。しかし、言葉が広がっていけばいくほど、生きづらさを生み出す背景への悪気のない評価が加わるようになってきました。
 

自分が何かを抱えていないと生きづらさを感じてはいけないのか。マイノリティ要素がなければダメなのか。ネガティブな背景で育ってきていないと疎まれるのか。何をもってふつうなのかはさっぱり分かりませんが、ふつうのひとは生きづらいと言ってはダメな印象を受けます。
 

言葉が一種の市民権のようなものを得たことで、その言葉に対する期待や願いを不意に込めてしまうようになったのでしょう。「生きづらさ」という世界を定点的に見てきた立場のせいで、この言葉がもつ排他性を感じるようになってきました。
 

何が原因でもいいじゃん。生きづらいんだったら、生きづらい、で。
 

少なくとも、花粉症という状態に慣れず、身体のあらゆる部分からの反応に耐えきれず、ネガティブな気持ちを引きずり、そこに輪をかけて、抜けていく髪の毛、臭くなる足の変化を受容することも、まだまだ簡単ではなく、僕は間違いなく、今、生きづらいのです。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。