私の職場で「今日来ている子ども、誰も動かせなかった…」と一日の終わりに落ち込んでいる職員がいました。
私が働く放課後等デイサービス(※18歳以下の障害児向けの学童保育のような場所)など福祉の世界では「利用者を上手く動かせる人=有能な職員」という雰囲気があります。
しかし「人を動かす」ことなんてできるのでしょうか?まるで自分の意図した通りに相手を操作できると信じているような発言に違和感をおぼえました。
子どもは意図した通りに動いてくれない
「新しい職員は、利用者(子ども)になかなか相手にしてもらえない」というのは、この業界ではよくある話です。
例えば、私の職場でいえば、宿題をやらずにダラダラとしている子に声かけをしても一向に動かないのに、他の先生が声かけをするとパッと動いて宿題を始めるとか。子どもの喧嘩を止めに入ろうとしてもちっとも言うことを聞いてくれず、逆に茶化されてしまうとか。自分の意図した行動とは、逆のことばかりをされてしまうのです。
私も働きはじめたばかりの頃は「全然相手にしてもらえない。むしろ、他の職員の仕事を増やしてしまって申し訳ない。居づらい。」と感じる瞬間がたくさんありました。
追い打ちをかけるように、職員からも「足元を見られているから、甘くしちゃだめだよ」とか「子どもは、人を見て使い分けるからね」とか言われました。子どもに拒否をされた上に職員からも注意を受けて、まさに泣きっ面に蜂状態でした。
どうすれば相手が動きたくなるかを考える
教師が子どもを「教えている」ということも錯覚である。このような錯覚がおこるのは、教師が「教えて」も「学ばない」子どもを、特例として除外してしまうからなのである。子どもをよく勉強「させる」教師は、ほんとうは「勉強させ」ているのではなくして、子どもの「自ら学ぼう」とする力によく刺激を与えよく援助を与えているというのが、現実の姿なのである。(『新訂・カウンセリング』伊藤博p.127 誠信書房、1966年)
「そもそも、人を動かすことなんてできるのかな?」と考えた時に、カウンセリングの本に書かれていたことを思い出しました。
子どもの頃に「勉強しようとしている時に、勉強しなさいと言われるとやる気が失せる」という経験をしたことがある方は少なくないのではないでしょうか。自分でやるかどうかを決めたいから、強制されてやるのは嫌だという方は多いはずです。
したがって、私たちにできることは「目の前の相手はどうやったら、やる気が出るのか?」を探ることなのではないでしょうか。
宿題を後回しにしようとしているとき、どうやって働きかければ「じゃあ、宿題やろうかな」と思い至ってくれるかどうかは子ども一人ひとりで違います。「終わればご褒美がある」と思えば頑張れる子もいれば「今の遊びのキリがよくなるまでは何が何でも動けない!」と心に強く決めているような子もいます。
私の場合でいえば、何が何でも動かない!という子どもに対しては少し時間を置きます。さりげなく観察して「そろそろ遊びに飽きはじめてきたかな?」というところで「やってみたら?」とあらためて声をかけるようになりました。
毎日の地道なトライアンドエラーの繰り返し。データの蓄積によって相手の傾向が見えてくるだけです。傾向が見えてくれば、提案の成功率は上がっていく。感情ではなく、論理の世界なのかもしれません。
実際には「人を動かしている」とは少しちがいます。結果的に動いているだけです。私たちができることは「相手のことを少しずつ知ること」「自分の提案を試行錯誤すること」だけです。色々試しても、ダメなときはダメで、最終的に「受け入れるかどうか」は相手が決めることだと思っています。宿題を例に出しましたが、基本的にはすべて同じだと思います。
「人を動かす」という発想の傲慢さ
仕事をしていると、話しかけても無視されたり、提案をしても拒否されたりする機会があります。これはわたしの職場のような福祉の世界に限らず、どのような仕事であっても共通する部分があるのではないでしょうか?
仕事では、他者と関係性を築く能力が必要になります。子ども相手の仕事だと、子どもの反応がその能力の状態をよく表し、自分の評価が左右されることにつながってしまうため、場合によっては自分の有能さを誇示することができてしまいます。
冒頭の「今日来ている子ども、誰も動かせなかった…」という言葉は、自身の能力に対して落ち込んでいる自分の表れかもしれませんが、子どもの反応はあくまでもトライアンドエラーの結果の一部に過ぎません。自分の能力を見せ、承認欲求を満たすために目の前の相手を利用しないでほしいのです。それこそ、暴力的な振る舞いや威圧的な態度などで人を動かすなんてことは、百害あって一利なしかもしれません。