「障害があるから配慮する」ということへの違和感。配慮は誰にとっても必要なこと。

障害者雇用の現場では「障害のある社員に対する配慮」は必須項目として挙げられています。
 

自分自身を障害者だと開示して就職活動をし、障害者雇用の枠で入社しているのだから、それは真っ当な話。例えば、額面で年収500万という契約で入社したのに、半額しかもらえなかったら激怒することと同じで、障害に対する配慮がなければ、障害のある社員が辞めることはもちろん、いろいろと訴えることだって可能です。
 


 

障害者雇用の制度だけでなく、障害者差別解消法が制定されたこともあり、障害者の権利は以前よりは確実に尊重されていますし、合理的配慮が様々な現場で求められ、また実行されるようになったことは事実でしょう。
 

ちなみに、合理的配慮とは「一人ひとりの障害の種類や程度、ニーズに合わせて、可能な範囲で配慮を行うこと」と個人的には定義していますが、細かいニュアンスは検索してみてください。
 

そんな構図もあって、障害者雇用の枠で働く障害者は配慮されることが当たり前であると認識していますし、企業側も障害のある社員に対し配慮することは当たり前であると考えています(一部を除く)。
 

しかし「障害があるから配慮する」というのはなんだか偏っている。というか、そんな狭い考え方でいいのでしょうか。
 

ウツを発症し障害者手帳を持っていたら配慮するけど、障害者手帳を持っていなかったら配慮はしないのか。障害ではなく、重たい病を患っているひとには配慮しないのか。
 

それはそれ、これはこれ。一人ひとりに合った対応、配慮を実行しますというのが、模範的な回答でしょう。ただ「障害」という属性と「(合理的)配慮」という考え方が、多種多様に困りごとを抱えているひとたちを分断しているようにも感じます。あたかも障害のある社員だけが配慮されるべき存在かのような。
 


 

障害者雇用を進めている企業では、障害のある社員がひとりではなく、複数人いる場合がほとんどです。複数人いるならば、配慮する側・される側の立場が、障害のある社員の中で交換、逆転することもあるでしょう。
 

また、企業には、妊娠中で出産・育児休暇前の女性社員、精神疾患から復職を果たすために時短勤務している社員、親の介護のために仕事と家族との間で板挟みになっている社員もいるでしょう。その場合、障害のある社員がサポートに入る(配慮する)ということは十分にあり得ます。
 

企業、職場というコミュニティ内にも様々な困りごとを抱えているひとがいる。場面場面によって、困りごとの大小は変わり、またそれは障害に限らず、様々な要因が絡み合うものです。そんな状況下で、障害者だけに「配慮」という考え方が集中するのは、単一的な視点が過ぎるかもしれません。
 


 

困っているひとには声をかける、手をさしのべるというのは、小学校までで習うこと。障害があってもなくても、目の前に困っているひとがいれば、さりげなく対応できる。障害があるから配慮してください、なんて言われなくてもそっと気遣えるのが、いい背中を子どもたちに見せられる大人でしょう。
 

障害があっても何も困らないひともいれば、障害がなくてもたくさんの困りごとを抱えているひともいる。それが社会。障害者雇用の現場で「障害のある社員に配慮してください」と解説するのはなんとなく視野が狭いなと感じつつ、「障害があるから配慮してほしい」と言う側に対しても、求めるだけではなく求められるものでもあるよなと感じます。
 

誰にとっても快適な職場を作るという意識があって、職場のメンバーが協力的でさえあれば、障害者雇用に関する仕事は減るのではないか。多様性を認めている職場には「障害者だから」なんて発想はないのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。