自分の障害を子どもにどう説明するのか。例えば「パパの足ってボクと違う。なんで〜?」と無邪気に聞かれたら。

「パパの足って、僕のと違うね、なんかヘン。なんで〜?」
 

左足には指3本。右足は足首で切断、ヒザは曲がらず。
左足には指3本。右足は足首で切断、ヒザは曲がらず。

 

この問いかけになんと答えればいいんだろうと思ったのは、ある5歳の子どもに、似たような質問をされたことがきっかけでした。子どもは分からないこと、不思議なことは何でも聞いてきます。自分とは違う足、ロボットみたいな義足、変な歩き方。それらすべてが興味対象です。ウチの息子はもうすぐ1歳半。そう遠くないうちに聞かれるんじゃないかなという予感がしています。
 

生まれつき両足が不自由で、健常者の足と比較すれば異形ともいえる足をもっているので、小さい頃から「なんでなんで攻撃」は日常茶飯事なものです。「なんでなんで攻撃」は地味に自分の現実を突きつけられるのですが、その結果、切り返しを工夫して楽しむということに慣れました。同級生には「俺、足悪いんよ。だからギブス履いてる。」と話し、義足から繰り出す蹴りは「ギブスキック」という名の必殺技になりました。ケンカはそんなに負けなかったなあと思い出しますが、そりゃ武器を持っている以上、当たり前な話かもしれません。
 

思春期を過ぎると、生足を見られるという経験が増えます。口説いた女の子には「苦労してる足やなあ」と言われたり「なんかエロいね」と言われたり。たしかに右足はアレに似ているので夜の鉄板ネタになりました。めんどくさいときには「前世で悪いことしたせいやろなあ」と答えていましたが、どうすれば盛り上がるかな、雰囲気が悪くならないかなという感覚から慣れてできるようになったこと。自分の子どもからの1発目にいい切り返しができるかはわかりません。
 

20150908写真②
 

子どもに質問されたとしても、普通に考えれば「生まれつき障害があってね」や「足が悪くてね」と答えればいい話ですし、わざわざ回答を細かく考える必要はありません。生まれつきであるせいか、原因が明確ではないので、病気や事故でと原因が伝えられるひとを不謹慎ながら少し羨ましく思うことはありますが、妙に言い繕おうとするほうがごまかしているように見えますし、実は障害を受け容れられていないのでは?という自己発見にもつながります。ただ、どう答えれば子ども(自分の子どもに限らず)に分かりやすく伝わるのかという点はなかなか答えが見えません。
 

子どもに障害という概念が分かるのか、自分との違いをどのように認識できるのか、生まれつきという理由は本質なのか、足が悪いというのは何と比較してなのか。子どもが3歳ならば、小学生ならば、高校生ならば。単に難しく考えているだけですが、子どもにちゃんと話したい、説明しようと考えれば、どういう言葉を選んで伝えればいいのか分かりません。もしかするとこれは障害に限った話ではないのかもしれませんが。
 

自分の息子の場合、生まれたときからパパの「他とは違う足」を見ているため、細かい言葉を補わなくとも、その場で出てくる言葉で伝えられる自信はありますし、伝わるだろうなと思います。それは見慣れていることが大きいでしょう。「他とは違う足」をもつパパを見慣れれば、それがパパにとっての日常だから分かりやすい。だからこそ、こちらもそこまで考えなくても済む話です。
 

しかし、これは私の障害が非常に分かりやすい障害だから言えることです。百聞は一見にしかずとも言いますが、見れば分かるというのはそれだけで説得力が増すものです。例えば循環器や消化器に持病を抱える内部障害はより説明しづらいでしょうし、耳が聞こえない・目が見えないといった障害であればどう伝えるか、伝わっているか確認できるかという点にハードルがありそうです。精神的な障害を抱えていれば、子どもが強い拒否反応をもつ恐れもあり、説明を受け取らないことも考えられます。
 

写真を撮り合う
 

子どもは両親を選ぶことはできません。親に障害があるということも選べません。自分の親が周囲の親とはどこか違うということに対して、疑問や不安をもつことは自然です。だからこそ、子どもからの無邪気な問い、真剣な問いに対して、障害をもつ親は真摯に向き合い、答える必要性が生まれるのでしょう。そこには辛さ、苦しさ、しんどさが起こるかもしれませんが、親が逃げれば、子どもにはシコリが残り、それが傷や劣等感につながるかもしれません。
 

障害者は自分の障害を受容するために、人それぞれ差はあれど、かなりの負荷がかかります。子どもが生まれたならば、その子どもが障害をどのように捉えるかどうか考えるだけで(受容する必要があるかどうかは判断が難しい気がしますが)また負荷がかかります。障害者が恋愛しづらい、結婚しづらい、家族を作りづらいというのは、障害の種類や程度、状況に因るものも多いと思いますが、この心的負荷も潜在的な原因のひとつです。
 

解決する手立てを見つけるのはなかなか難しいですが、障害者が自分の生活範囲内の身近にいることが日常になれば、自分の身内に障害者がいてもおかしくない、大事ではないという無意識的な感覚(そこから生まれる感情は抜きにして)を得て、巡り巡って自分が障害者であるという必要以上の自意識を持たなくて済む社会になる、そうすれば、上記の心的負荷は緩和するかもしれないというのがひとつの流れであり、個人的な仮説です。とどのつまり、障害者自身で社会に一歩踏み出していかなくては社会は変わらないということなのでしょう。
 

障害者を「チャレンジド」という言葉で表現したのは言い得て妙ですが、「家族」という存在にも多くの障害者が一種の挑戦をし続けなくてはならないのかと思うと、神様なかなかタフな道を用意してくれましたねと思います。ただ、障害という一般的に見てネガティブな要素を通じて生まれるコミュニケーションは、感情の吐露や起伏が伴う分、親子間の信頼関係をより強固なものにつなげてくれるものかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。