今日から僕は「障害者(仮)」として生きる。障害者と健常者の狭間で。

皆さんは、健常者と障害者の境目はどこにあると思いますか?どのようなひとを「健常者」、どのようなひとを「障害者」と呼ぶのでしょうか。
 

障害者基本法第二条において、障害者の定義について、下記のような記述がなされています。
 

身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む)、その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。(引用元:総務省法令データ提供システム http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S45/S45HO084.html

 

さすがに法律上の定義なので、そのまま読むとだいぶざっくりしているなと感じます。ちなみに、法的定義に関しては、その法律の機能や目的とする所によって定義も変わってくるらしいとのことで、持っている障害の種類によってまちまちとのことです。いきなり法律の条文を見ましたが、私の言いたいことは、健常者と障害者の定義というのは想像以上に曖昧だということです。
 

私は、障害者と分類される人間の一人です。生まれつき目の発達があまり良くなく、眩しさの調整ができない無虹彩症と、それに伴う眼鏡等で調節できない弱視(ロービジョン)が私の抱える障害ですが、視力自体は0.4〜0.3程度と極端に悪い訳ではなく、日常生活のほとんどは裸眼で過ごしていますし、仕事にもほとんど支障はありません。
 

しかし、障害があるということをアイデンティティのひとつとして生きてきた私。元々、大学で映像の勉強をし、表現やメディアに興味のある人間として、障害者という社会的存在をいま一度見つめ直したいなという想いが、ちょうど今、湧き起こっていることもあり、こうして原稿を書いています。
 

初めて原稿を書くからと、自分の持つ障害について検索しようとしたとき、ふと気づきました。25年間障害者として生きてきたにもかかわらず、私は今まで一度も自分の障害について検索したことがない!お医者さんの話を鵜呑みにしていたから?興味が無かったから?理由はいろいろ考えられますが、おそらく、自分の中で障害があるということを普通のこととして子供の頃から過ごしてきて、まったく疑問を持つことが無かったからではないかと思います。
 

私の障害は非常に軽度なものに分類されるのではないかと思います。学校での勉強に苦労はあったものの、著しく日常生活に支障をきたすこともなく、それ故に公的機関に支援を求めることもありませんでした。しかし、いざ調べてみると非常に気になる一文が目に入りました。
 

世界保健機関 (WHO) では、矯正眼鏡を装用しても「視力が0.05以上、0.3未満」の状態をロービジョンと定義している。(引用元:ロービジョン|Wikipedia)

 

なんと、自分が障害者じゃないということが発覚してしまいました!
 

右目の視力が0.4あることが理由ですが、これはまずい。こうして原稿を書いている意味が根本的に覆りかねません。初めての寄稿から波乱のスタートですし、自分自身のアイデンティティが崩れていきます。ああ、どうすれば!
 

吉本さん原稿0511①
 

というのは言い過ぎで、実際のところ、弱視(ロービジョン)の基準というのは非常に曖昧で、日本ロービジョン学会のwebサイトにも具体的に視力いくつからが弱視(ロービジョン)という記述はされていません。見えにくく、かつ視力が矯正できない状態の人は、だいたい弱視(ロービジョン)といっていいようです。
 

私はたしかに障害の程度としては軽度ですが、それでも、他人より勉強が大変だったり、運動が苦手だったり、いじめられたりなど、障害を持つことに端を発した苦労というのは、それなりにしてきたと思っています。とはいえ、自分を特別不幸だとは考えていませんでしたし、いち「普通のひと」として日常生活を過ごしてきました。
 

私は障害を持っていますが、24時間365日いつも「障害者」の時間を過ごしている訳ではありません。お風呂に入っている時間、映画を観ている時間、ラーメンを食べている時間。友達と無駄話をしている時間。そのときの私は健常者と何も変わらない時間を過ごしていると考えることができるのではないでしょうか。私が障害者として時間を過ごしているのは、教室で授業を受けているときや資格試験を受けているときといった、誰かと同じことを、同じようにするように求められているときといった感じでしょうか。
 

また、世の中には、障害の有無にかかわらず、私より大変な苦労をしている方がたくさんいます。身体的な障害だけでなく、心の傷や、恵まれない家庭環境や、犯罪の被害経験といったような、様々な目に見えない、かつ想像しづらい苦しみを抱えている方も含まれます。そんな人々がいるにも関わらず、自分だけが「障害」という象徴的な言葉を用いて自らを被害者のように正当化することは、ずるいと考えていたからです。なぜ自分は「障害者」に分類されるのに、自分より苦しんでいる人が「障害者」に分類されないのか。これは私が10代の頃から持っていた疑問でした。
 

障害による生きづらさというものは、非常に属人的、個人的な苦しみだと、私は思います。もし、障害者に対して何らかの支援策を考えるならば、対象者を「障害者」というビッグワードで括って何が必要か考えるというのは、すこし的が外れているように私には感じます。また、障害者側も、自らの苦しみを障害者一般の意見と同一化して語るのではなく、自らの個人的体験や価値観のバックグラウンドを見つめ直すことが重要なのではないでしょうか。
 

私は、今まで一度も障害者手帳の申請を行おうとしたことがありません。それは、自分の視力が大して悪くないということもありますが、どちらでもなくどちらでもある、曖昧な状態が自分に一番フィットしているからなのではないかと思います。「健常者」と「障害者」の境目は非常に曖昧で、自分自身をどういった存在として捉えるかによるものなのだと、私は思っています。
 

「健常者」でも「障害者」でもない。私自身を表す言葉は、障害者(仮)くらいがちょうどいいのかもしれません。
 

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吉本涼