知的障害者にとって街中に潜むバリアにはどんなものがあるの?

目の不自由な人のために作った点字ブロックが、車いすユーザーの移動の妨げになってしまうことがある。車いすユーザーのために作ったスロープが、義足ユーザーにとって上りにくいことがある。バリアフリーという言葉が使われるようになってだいぶ時間が経ちましたが、ある立場のひとにとってのバリアフリーが、違う立場のひとにとってのバリアになることがあるというのは、意識していなければなかなか気づきません。
 

そもそもバリアフリーという言葉は「移動」の妨げを無くすことに対して使われることが多いです。例えば、障害者のためにバリアフリーにするといっても、実際には、移動が不自由な方が対象であり、身体障害者が主な対象になることがほとんどで、同じ障害者の枠組みに入る知的障害者や精神障害者にとってのバリアフリーを考えることは少なく、時に不在です。
 

2014年7月12日の「Plus-handicap Session #5」では、知的障害をもつ息子を20年以上育ててきた志村陽子さんと知的障害者の外出支援の仕事をしている根本淳也さんをお招きして、「知的障害者目線でのバリアフリー」を考えることを主なテーマとして開催しました。
 

Plus-handicap Session #5の様子
Plus-handicap Session #5の様子

 

身体障害者のためのバリアフリーがトラブルの種?

 

知的障害者が通学や目的地までの移動などをする際の手助け(切符を買ったり、経路を誘導したり、一緒にバスを待ったりなど)を行う外出支援を仕事としている根本さん。町の至る所にあるものが知的障害者にとってのバリアとなるという興味深い話をしてくれました。
 

目の不自由な人のために、横断歩道にボタンがあるのってご存知ですか?ボタンを押したら「しばらくお待ちください」と流れるやつです。あれって知的障害のあるひとにとって、すごく面白いものだと認識しちゃうんです。ボタンを押すと声が流れる、これ楽しいな不思議だなって。興味をもっちゃうと本人が納得するまでずっとやってる。横断歩道を渡るための道具が、横断歩道にステイさせるためのボタンになっちゃうんです。

 

左が根本さん、右が志村さん。
左が根本さん、右が志村さん。

 

譲れない自分自身のこだわりがある人もいて、エレベーターのボタンをいの一番に押さないと気が済まないっていう方の支援もしているんですけど、駅のホームにあるエレベーターはダメ。どれだけ人が並んでいても、全員払いのけてでも先頭に行ってしまう。子どもを払いのけちゃったこともありました。障害者や妊婦さん、高齢者のためのバリアフリー設備が、トラブルの元になっちゃうこともあるんですよね。

 

知的障害者にとって、自分のルーチンやこだわりに関わらないものすべてがバリアだとしたら、街中にあるものすべてがバリアになる可能性をはらんでいます。むしろ、すべてがバリアだと言っても過言ではありません。少しオーバーな表現になりますが、身体障害者にとって必要なバリアフリー設備を増設するということは、知的障害者にとってのバリアをひとつずつ増やしていることになります。同じ障害者というカテゴリ内でも、単一解で解決できない難しさがバリアフリーには備わっているのです。
 

知的障害者に対する無理解が引き起こすバリア

 

周囲のひとの無理解や偏見から受けたトラブルがあったと、知的障害のある息子、雅人さんを25年育ててきた志村さんが話してくれました。
 

雅人が小さい頃って、急に走り出しちゃってどこ行くか分からないときがあった。役所で書類をもらうための申請書を書いてるとき、テーブルの上に座らせて、私がその上から抱き締めて、要は動かないようにしていたの。そしたら、知らないオバちゃんから「テーブルの上に乗せてるの?」って言われちゃってね。「スミマセンね〜」って言って手を離すと、雅人は走り出しちゃった。オバちゃんから「なんて行儀の悪い子」とまで言われちゃって。世の中にはこういう子もいるんだって怒りそうだったけど、知らないから仕方がないんだよね。

 

Plus-handicapが実践していきたいこと。今回は知的障害者のバリアフリーについての翻訳。
Plus-handicapが実践していきたいこと。今回は知的障害者のバリアフリーについての翻訳。

 

そういえばコンビニかなんかでレジに並んでたときも、知らないオジサンに雅人はパシーンってアタマを叩かれたことがあったなあ。たぶん、雅人は自由に気の向くままになんかやってたんだろうね。それが気に食わなかったんだと思う。自分の価値観の物差しだけで見ちゃうと、雅人なんて例外になっちゃうから、受け容れられないんだろうなと思う。

 

志村さん親子に起きたことは、知的障害者のことを知らなかったという事実が原因なのでしょう。無理解、情報不足、偏見。どの言葉が当てはまるのかは難しいところですが、知的障害者のことを知らず、自分の価値基準の中だけで他人を判断してしまうひとが多ければ多いほど、同じようなトラブルが引き起こされる可能性はなくなりません。知的障害者に対して、このように接していくべきだ、接していかなければならないというような「べきだ」論や「強迫」論はやりすぎだと思いますが、少しだけでもいいから知ってみようとする、情報を入手してみようとするという人たちが増えれば、彼/彼女たちにとって暮らしやすい街が生まれるのかもしれません。
 

あくまでもサンプルのひとつに過ぎないということ

 

このイベントの最中、志村さんからも根本さんからも発せられた言葉にこのようなものがあります。
 

「私は知的障害者の母だけど、雅人よりも重い障害をもつお母さんもいるし、全然受容できないお母さんだっている。私はあくまで一例です。(志村さん)」

「僕がお話しできるのは、僕が見ている子から得られたものです。僕の言葉がすべて正しいというわけではありません。(根本さん)」
 

志村さんや根本さんが体験してきたことは、あくまでもサンプルのひとつに過ぎないということ。今後の思考や考えの判断材料のひとつにしてほしいということをお2人は話していました。これはお2人の厳しさであり、優しさであり、誠実さであるなと感じました。
 

知的障害者と一括りにしても、一人ひとりに違いがあり、一人ひとりが抱えるバリアも異なります。知的障害者全員に対して当てはまるバリアフリーの手立てもあれば、個別に用意しなければならない手立てもあります。それは冒頭部分で説明した箇所にも通ずるものです。
 

バリアフリーを考える際に、今まで不在になりがちだった知的障害者の目線。不在だったと非を認め、まずは知的障害者ってどんなひとたちで、街中でどんなことに困るんだろうという情報を集めることから、社会側は一歩踏み出していく時が来たのだと思います。社会を構成する全員に強制する気はさらさらありませんが、気づいたひとから少しだけ行動してみる、考えてみるだけで、社会はちょっとだけ変わるのかもしれません。
 

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この記事を書いた人

佐々木 一成

1985年福岡市生まれ。生まれつき両足と右手に障害がある。障害者でありながら、健常者の世界でずっと生きてきた経験を生かし、「健常者の世界と障害者の世界を翻訳する」ことがミッション。過去は水泳でパラリンピックを目指し、今はシッティングバレーで目指している。障害者目線からの障害者雇用支援、障害者アスリート目線からの障害者スポーツ広報活動に力を入れるなど、当事者を意識した活動を行っている。2013年3月、Plus-handicapを立ち上げ、精力的に取材を行うなど、生きづらさの研究に余念がない。