普通すぎて生きづらい?

東京生まれ東京育ち。両親は会社員で共働き。特別貧乏でもなく裕福でもなく、スーファミもプレステも家にあったし、ディズニーランドにも連れて行ってもらえた。でもお受験なんてとんでもなくて、地元の公立小・中学校、高校は成績相応の都立高校、大学は偏差値50台の都内の私立大学文系。新卒で従業員300人くらいの中堅企業に就職し、初任給は20万ちょっと。身長174cm、体重60Kg。
 

kazoku
 

なにかの物語の主人公ではありません。主人公にするにはあまりに普通すぎてインパクトがないです。これは私自身の実際の生い立ち。そうなんです、私、普通なんです。
 

Plus-handicapには両足義足の編集長をはじめ、アトピーで苦しんでいたり、うつ病だったり、セクシャルマイノリティだったりという生きづらさを抱えている人たちがたくさん関わっています。
 

でも、私は五体満足でアトピーになったこともなく、恋愛対象は女性なのでかわいい子を見れば盛り上がります。自分でうつ病なんじゃないか?くらい辛かったことはありますが、診断されたわけでもなく、今は何の問題もなく生活をしています。特別貧困な状態に陥ったこともなく、陰湿ないじめを受けたこともない。エリートかと言えば、大学は偏差値55前後の私立文系で、就職した会社はコンサルティング会社だけど外資系じゃない。したがって、給料は特別高いわけでもなく、それほどステータスもありません。
 

もし、人生偏差値なるものがあったなら、少なくとも今までの私の人生は「偏差値50~55」くらいではないでしょうか。それくらい普通なのです。普通なことが悪いことだとは思いません。でも「生きづらさ」をテーマにしたメディアに関わっているのに自分が普通というのは、なんだかすごく劣等感を感じるのです。
 

bouningen2
 

普通の生活をしてきたから、社会に対する問題意識が高いわけでもありません。地元の地域活性をしようにも、地元は東京都千代田区。言わずもがな大都会のど真ん中で行政の財政状態も厳しくありません。父の出身地も同じで、母親も葛飾区や千葉で育ってきた人なので、地方が過疎化で大変だと言われてもあまりピンときません。そもそも生まれ育ったのがコンクリートジャングルなので「東京にいると疲弊する」という人がイマイチ理解できません。
 

「普通だから生きづらい」なんて言うと恵まれた人のないものねだりだと言われるかもしれません。はい、その通りです。ないものねだりです。でも、学校の図書館にあった偉人伝も、起業家の自伝も、プロジェクトXも、みんな苦労の後に成功しているように描いています。また、みんなから応援される人は逆境を乗り越えていたり、逆境でも明るいイメージがないでしょうか。
 

普通に生きてきた人間にとって、そんな苦労や逆境と思える状況は滅多にめぐり合うものではありません。すると、「苦労していない自分はダメな人間なんじゃないか?」「自分も逆境に身を置かなくてはいけないのではないか?」と考えるようになってします。こうして「普通すぎて生きづらい」人たちが誕生していくのです。
 

普通すぎて生きづらい人たちは、苦労すること、いえ正しくは「周囲から苦労していると見られること」を重視します。その結果、起業したり、ベンチャーに就職したり、NPOに就職したりしていくのでしょう。偏差値55以上の大学でソーシャルビジネス系の学生団体の活動が活発なのは、そのためだと思います。「良い大学を出て大企業へ」という、いまだに「普通」で「良いこと」とされている道からそれてみたいのです。
 

普通だからこそ、普通ではないものへ憧れる。でも、多くの人は憧れてはいても、いざ普通ではない状態に置かれると「やっぱり普通がいい」とか「普通の人は恵まれている」と言い出すか、無理やり自己催眠をかけて「普通じゃない今の自分は幸せなんだ」と思い込みます。一見恵まれている「普通」であることも、実は生きづらい属性の一つなのです。

記事をシェア

この記事を書いた人

井上洋市朗

「なんか格好良さそうだし、給料もいいから」という理由でコンサルティング会社へ入社するも、リストラの手伝いをしてお金をもらうことに嫌気が差し2年足らずで退職。自分と同じように3年以内で辞める若者100人へ直接インタビューを行い、その結果を「早期離職白書」にまとめ発表。現在は株式会社カイラボ代表として組織・人事コンサルティングを行う傍ら、「生きづらい、働きづらい環境を変える方法」についての情報発信を行っている。