皆さん、ごきげんよう。矢辺です。
先日、以下の記事を書かせていただき、賛否両論のご意見をいただきました。
この世にマイノリティなんていない!?ちょっと過激なマイノリティ論
私の書き方が悪く、真意が伝わっていないようにお見受けした部分もあるので、改めて伝えたかったことを書かせていただきます。
前回の記事の文中に出てきた、私が手話を覚えるきっかけになった前職の同僚のろう者がこんなことを言っていました。
これまでの障害者が生きる道は、マジョリティに適応する力、つまり、自分を殺して、出来るだけマジョリティ都合に合わせられるようにしていくことを意味していました。私の場合でいえば、自分の声がわからないのに、発音訓練(矯正ともいう)ばかりやらされ、手話を磨くということがなかった。結果として自分を活かす術を知らないろう者が大半じゃないかな。似た話で言えば、足が不自由で歩くことは困難だろうと分かっている人に、車いすじゃなくて何とか歩け!と言うようなもの。
なので、実社会に出るとマジョリティ都合に合わせることに必死になる。これはマイナスからのスタートを意味している。当然ながら、力のある障害者たちはおかしいと気づきます。自分の力を発揮するためには、周りを巻き込みながら環境を変えていかなければという考え方にたどり着きます。
しかし悲しいかな、幼少のころから自分を殺すことしか教えられなかった場合は、周りを巻き込むような魅力がない、磨けないという問題にぶつかるんだよね。
私が伝えたかったことは、努力して社会に合わせろということではありません。人間的魅力を高めようということでした。
本当の相互理解とは、障害者(マイノリティ側)も認められる努力をし、健常者(マジョリティ側)も相手を理解しようという考えがあって、初めて一歩進み出すのではないかと考えているからです。私はこんなに大変なんだから私を無条件に認めなさいって言うのはあくまで一方通行の理解だと思いますし、これは相互理解を促しているのではなく、マイノリティ側の一方的な理解の押しつけです。
だからこそ、大事なことは人間的魅力だと考えています。マイノリティであろうとマジョリティであろうと人間的魅力がある人の元に人は集まります。社会に合わせるのではなく、自分から巻き込んでいく。「かわいそうな存在」「私は認められなければならない」という視点からでは、人間的魅力は身に付かないのではないでしょうか。
誰もが自分の存在を認めてもらうために、コミュニケーションを取り、相手の記憶の中に「自分」を残してもらうように働きかけます。そういう意味では、誰もが認められる努力を自然としているのです。「自分」を認められる努力は誰にとっても必要であり、実践している訳ですから、この点でマイノリティなんていないと言えるのではないかと私は考えています。
人間的魅力を持ったうえで、社会がどのような状況であったとしても、自分を理解してもらうと努力をすることは、マイノリティ側・マジョリティ側、どちらにとっても関係ないことではないでしょうか。
前衛的なことを掲げ、社会からなかなか認めてもらえない経営者と、マイノリティという立場にあり、自分たちの存在を認めてもらおうと努力している人の違いはなんでしょうか?私はまったく同じだと思っています。